久保有政師の「法華経のシャカ像の元はキリストだった」は、確かに同意できるものです。
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確かに小乗仏教から大乗仏教への大変化は、同じ宗教とは思えないような変容です。
その背後には、使徒トマス のインドや中国でのキリスト教宣教が影響していると感じます。
法華経のような基本的な仏教経典が、キリスト教の影響を受けてシャカの教えを大幅に変えたものだとしたら、大乗仏教の諸宗派は、もはや仏教ではないのかも知れません。
昨日から時間を割いて親鸞の歎異抄を読みましたが、この経典も、肝心なところは聖書の焼き直しでした。失礼ながら、読んでも薄っぺらなものと感じてしまいます。こう言うと、「仏縁がない」、「罰当たりだ」と、原始時代のシャーマンや呪術師のようなことを言う仏教徒がいますが、そんなことばかり言って、頑なになっている状態で正しい判断ができているのでしょうか?
なぜ薄っぺらかと言うと、経典では聖書のキリストの言葉の部分的なものを扱っているだけですから、聖書を読んでいる者には、物足りなく感じてしまうのでしょう。例えば、
「そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。」
(なぜ悪人でも、阿弥陀仏の本願を信ずる一つで救われるのかといえば、煩悩の激しい、最も罪の重い悪人を助けるために立てられたのが、阿弥陀仏の本願だからです。)〜歎異抄第1章 摂取不捨の利益
これに当てはまるマタイ伝のキリストの言葉は、
「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」
マタイによる福音書 9:11-13 新共同訳
などこの一句に関してでも、まだ他にも同じような聖書の話しが複数あります。
今夏、ある仏教のホームページで他の句を挙げて、「こんなお言葉は、他にはないだろう」と熱を入れて語っていましたので、「それマタイ伝の言葉だよ」とマタイによる福音書 28章20節を示すと、急に勢いがなくなり、ホームページのトップで語っていた文章を"そっと"消してしまわれました。
私は、日蓮や親鸞を宗教者として尊敬しますが、こんな僧侶の姿や、宗派間で誹謗中傷合戦を繰り返している日本の仏教諸派の教役者を見ると、とても残念に思います。
仏教をご商売でされている方もいるようですが、極楽か地獄かをかけて信仰されているなら、経典のルーツがどこから来たかをよくお調べになるべきだと思います。真言宗の方は、東方キリスト教(景教ネストリウス派)の影響をお認めになっていますが、多くの仏教徒の方は、伝統に流されるだけで仏教を続けていては、真実の神様を見出せずに、後悔されるのではないでしょうか?どうか、公正な視点で、ご自身の信仰しているものを調べ、点検してみてください。
http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/08/16/143233