神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

昨夕のご臨在 〜狭き門を見よ

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2022.5.7撮影

「目は体のともし火である。だから、あなたの目が単一であるなら、あなたの全身は光に満ちる.
しかし、あなたの目が悪ければ、あなたの全身は暗い。もし、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう!
だれも二人の主人に仕えることはできない.なぜなら、人は一方を憎んで他方を愛し、一方を重んじて他方を軽んじるからである。あなたがたは、神とマモンとに仕えることはできない。」

マタイ伝6:22-24(回復訳)

単一の目

人には二つの目玉があります。しかし、視線が一つに定まらず、ぼんやりと複数のものに目を注いでいては、体全身は集中することはできません。どちらに進むべきかもわかりません。

針の穴に糸を通すときや、遠くにある点のように小さく見えるものを見るとき、視線を集中し神経を研ぎ澄まし、目を一点に向けます。そんな時は、決して目をうつろにしたり、広角レンズのように見ることはしません。

「目は体のともし火である」。現代的には目は体の懐中電灯なのでしょう。懐中電灯の焦点が一つに定まっていれば、よく見えますし、身体がどのように動けば安全にゴールへ進めるかがわかります。

信仰の視線は、遠くにある針の穴(狭き門)を見つめて歩むようなものだと思います。御国の狭き門から入れるように狭き門に全神経を向け、懐中電灯の焦点を当てます。

御国に至る狭き門を照らして見つめていれば、この世の雑事やマモンは目に入らないはずです。この世のことは片手間でよくなります。針の穴を見つめていれば、あなたは御国の入り口に向かい、この世の富や万事はあなたの後ろから着いてきます。

しかし、この世を優先し、この世に懐中電灯を向けるなら、すぐ小さな針の穴がどこにあるか分からなくなってしまいます。目は広角レンズのように焦点が定まらず、お金やたくさんの物に視線がいきます。しかし、そこには求めるものはないので、また他の物を探してまわることになります。これが欲しいあれが欲しいと探し回り、やっと手にいれてもそこに心を埋めるものはないのです。そしてまたほかの物を探して闇の中を探し回るのです。

この世に視線をむけて、この世の物を探し求める。しかし、この世に我々の心の空洞を埋めるものはないのです。

目が見えないなら、真っ暗闇になります。

この世のマモンに目を向けたら、神さまが見えなくなります。この世の闇に目を向けたら、神に背を向け暗い所へ向かうことになります。光に向かうのか闇に向かうのか?それはどちらに目を向けるかによるのです。

天の門である救い主キリストに目を向け焦点を当てたとき、たとえ針の穴のような狭き門でも、そこに向かって全身が動いて行くのでしょう。