神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

レーマを読み解く20 〜笛吹けど踊らずとは

マタイ伝11章より

11:16ところで、わたしは❶この世代を何にたとえようか? それは、❶小さい子供たちが市場に座って、❷他の子供たちに呼びかけるのに似ている.

11:17 ❶彼らは言う、『❶わたしたちは❷あなたがたに❸笛を吹いたのに、❷あなたがたは踊らなかった.❹弔いの歌を歌ったのに、嘆き悲しむことはなかった』。

11:18 ヨハネが来て、❺食べることも飲むこともしないと、『彼は悪鬼にとりつかれている』と❶彼らは言う。

11:19人の子が来て、❻食べたり飲んだりすると、『見よ、食いしんぼうで大酒飲み、❼取税人や罪人の友』と言う。しかし、❽知恵はその❾働きによって義とされる」。

11:20「それからイエスは、❿力あるみわざの大部分がなされたのに、悔い改めなかった町々を、叱責し始められた.」(回復訳)

今の世の中を見ますと、その時々の為政者の政策やマスコミの作り出す流行によって、人々の言うことが大きく変わります。戦前のキリスト教徒も無意識のうちに時勢の風潮に巻き込まれ、敵対心を植えつけられ、大勢の言うことに従い戦争に向かっていきました。かたや、鬼畜米英と言っていた人々が、終戦マッカーサー率いる進駐軍に物資をもらい、政治も文化もアメリカ寄りに一変したのです。こんな世の傾向は、今も同じです。

主イエスは、❶この世代を市場に座っている小さな子供たちのようだと言っています。❶彼らは、❸笛を吹いたのに❷あなた方は踊らなかったと言い、❹弔いの歌に❷あなた方は悲しまなかったと言うのです。つまり、❶彼らのやる遊び仲間に入らなければ、その者を批判するのです。イエスの世代だけではなく、この世は、そんな遊びを繰り返しています。❶多数派が❸笛を吹いたら一緒に踊れ。❹弔いの歌を歌ったならば、悲しい顔をしろと言うのです。まるで全体主義を指しているようです。

主イエスはそんな世代を批判しています。つまり当時のユダヤの為政者や宗教指導者たちは、自分たちに調子を合わせないバプテスマのヨハネが❺断食をしていれば、それを悪鬼につかれていると批判し、イエスが❻飲み食いしていれば、大酒飲みと批判するのです。その当時のユダヤ人たちも、自分たちの考えと違うイエスたちを、奇跡力の伴う事実を無視し、自分たちになびかないことを批判したのです。また、❼取税人や罪人を毛嫌いし、差別しているのです。しかし、イエスの❽知恵の正しいことは、その❾働きによって示されています。つまり、主イエスは、その言葉と行動が一致しており、その❾働きは奇跡を伴うもので、神からの権威あるものであるとわかる方でした。しかし、当時の多数派の人々は信じようとしないばかりか、批判までしたのです。自分たちに都合が悪ければ、敵とみなし、真理をねじ曲げてあらさがしし、批判します。そして、自分たちの言うことを聞かない者は力ずくで十字架に架けるのです。

今の世代でも、そんな集団がたくさんいることを感じます。「笛吹けど踊らない」者(=自分たちの思い通りにならない者)を迫害し、真理から目を背けるのです。

11:20「それからイエスは、❿力あるみわざの大部分がなされたのに、悔い改めなかった町々を、叱責し始められた.」とあります。コラジン、ベツサイダ、カペナウムで行われた❿力ある御業。しかし、人々は❿力ある御業の事実を無視し、多数派や宗教的権力者になびき、イエスを批判し、結局悔い改めることがなかったのです。

キリストは、昨日も、今日も、永遠に変わらないお方です。このお方に従うということは、この世と違う生き方をすること、否、この世と違う生き方にならざるを得ないのですね。

(自分のこの解釈は、回復訳の注解と、違うようなので書きました。誤っていたら教えて下さい。)

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以下、探求中の項目

われわれの心の中には、意識と無意識があります。無意識というと通常は潜在意識のようなものと混同されます。潜在意識は単に意識されないものであり、外界からの宣伝や教育、その他の操作によって変えることができます。
それに対して、無意識はフロイトが『超自我』と呼ぶものですが、それは状況の変化によって変わることはないし、宣伝や教育その他の意識的な操作によって変えることもできません。フロイト超自我について、外に向けられた攻撃性が内に向けられたときに生じるといっています。一体、無意識の中の超自我とは、何でしょう。そして、キリストの霊が、その超自我とどのように関係するのでしょうか。探っていきたいです。

 

✟祈りの中で97 ~偽善者よ目の梁を取り除け

今日は、実生活の中で自身には何も良いものがないことを体感しました。都合の悪いことに嘘をつく自分。やっぱり「自分には何も良いものはない」。そして、聖霊様と主のご臨在を意識しなければ、まちがいなく肉のアダムが出てくるのです。本当に残念な者です。

「『わたしは彼を知っている』と言いながら、彼の戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人の内にありません.」Ⅰヨハネ2:4(回復訳)

まったく、自身は偽り者でしかないのです。しかし、贖われた今、もはや自分を見ているヒマはないのです。

ここ数日、「目の中の梁」について聞いていますが、礼拝の中でインスピレーションが来ました。マタイ7章より。

7:3なぜ、あなたの兄弟の目にある❶ちりを見ながら、自分の❷目にある❸梁に気づかないのか?

7:4見よ、❸梁があなたの目にあるのに、どうしてあなたの兄弟に、『あなたの目から❶ちりを取らせてください』と言うことができようか?

7:5偽善者よ、まずあなたの目から❸梁を取り除きなさい.そうすれば、あなたは、❹はっきり見えるようになって、あなたの兄弟の目から❶ちりを取り除くことができる。マタイ7:3-5(回復訳)  

 「❸梁(はり、りょう)とは建物の水平短径方向に架けられ、床や屋根などの荷重を柱に伝える材」とあります。それは、水平に架けられる木材です。なぜ、❷目の中の❶「ちり」と比べて❸「梁קורה」があると言ったのでしょうか。「大きなごみ」「木切れ」「とげ」「丸太・柱」でもいいのではないでしょうか。よりによってあまり馴染みのない❸「梁」と言う言葉を遣うのには、何か理由があるはずです。

マタイ22:36-40より

「先生、律法の中でどれが大切な戒めですか?」

エスは彼に言われた、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが大切な第一の戒めである。第二もそれと同じである.『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。これら二つの戒めに、すべての律法と預言者がかかっている」。(回復訳)

「On these two commandments hang all the law and the prophets.」
‭‭Matthew‬ ‭22:40‬ ‭KJV‬

すべての律法と預言者が架かっているのです。どこに?主に向かう縦の戒めと隣人に向かう横の戒めに架かっているのです。

 ❷目の中の❸梁とは、十字架の横木のようです。それは、縦の柱とクロスします。縦の柱は、天へ向かうベクトルです。天を見て、天を仰ぎ、天に向かうものです。そして、❸梁(横木)は、左右に水平に向かうベクトルです。梁とは、天に向かわずに、水平にこの世を見渡す世に向かう❷目、世にとらわれた目です。天ではなく、世を見る❷目では、主イエスの言ったように、その闇はどんなに暗いことでしょう。

「偽善者よ、あなたの❷目に❸梁があるから、はっきり見えない」と言っています。「❸梁を取り除きなさい.そうすれば、あなたは、❹はっきり見えるようになる」と言っています。❸梁(横木)のように、つまり、この世を地面に平行に見渡しているから、はっきり見えないと言っているのでしょう。❸梁(横木)ではなく、天へと目を注いでいれば、光が射して見えるようになります。この世の一時の不都合によって嘘をついたり、この世の価値観で生きることもなく、兄弟の方向を見て兄弟のあらを探し裁くこともないはずです。

そして、天に目を向けつづけるなら、兄弟の目からも❶ちりを取り除くこと=天へ目を向けるように導けるのでしょう。この世とのしがらみで自身がゆがめられ、嘘をつき、罪を犯す。それは、この世に❷目を向けているからなのでしょう。私自身の罪の性質は、この世との関係で構築されてしまいます。しかし、天に向かう縦の柱、第一の戒めである「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたのであるを愛しなさい。」マタイ22:37が優先されるべきなのでしょう。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし愛するには、であるを見つめ続けることが、鍵となるはずです。

「わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるエスを、ひたすら見つめていなさい.ご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そしての御座の右に座しておられるのです。」へブル12:2(回復訳)

偽善者にならないためには、この世に目を向ける横方向の❸梁を取り除き、縦方向の天に目を向け、をひたすら見つめ続けることなのですね。そして、主を思うときに、はっきり見えるようになり、自分と同様に隣人を愛することが可能になるのですね。他に目をうばわれやすいこの者も、早くそんな生き方をしたいものです。

adonaiquovadis.hatenablog.com

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祈りの中で 96 〜キリストの血潮に繋がる ぶどうの枝

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※自宅の葡萄 昨年撮影

祈りの中で、キリストの十字架が見え、そこから枝が伸びて自身に繋がる幻を見ました。その枝から、主イエスの血潮が流れ込んでくるのです。そして枝は私の父母や家族や近しい者に繋がって伸びていくのです。天に宝(心臓)を預けた私の身体に主イエスの霊(血潮)が流れ込んでくるのです。ハレルヤ!

15:5 わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人が❶わたしの中に住んでおり、❷わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。
15:6 わたしの中に住んでいない者は、枝のように投げ捨てられて枯れてしまう.人々はそれを集めて、火の中に投げ込むので、それは焼かれる。
15:7 あなたがたが❶わたしの中に住んでおり、❸わたしの言葉があなたがたの中に住んでいるなら、❹何でも望むものを求めなさい.そうすれば、それはあなたがたにかなえられる。ヨハネ15:5-7(回復訳)

❶わたしの中に住むとは、主のご臨在の中に浴することなのでしょう。「住む」とは、家に帰るような感覚です。学校や仕事から毎日帰ってくる住処のように、毎日神のもとに帰り、そこで長い間とどまることです。

❷「わたしもその人の中に住む」とは、❸「わたし(=イエス)の言葉があなたがたの中に住む」ことです。それは、御言葉をたくさん読み、暗記することでしょうか?それも有用です。

ヨハネ6:63には、「命を与えるのはその霊である.肉は何の役にも立たない.わたしがあなたがたに語った❺言葉は霊であり、命である。」とあります。イエスが語った❺言葉は霊であり、命であり、ただの印刷された言葉ではなさそうです。

また、第1コリント15章には、次のように霊と命について書いてあります。

15:45 そこで、「最初の人、アダムは、生きた魂と成った」と書かれていますが、最後のアダムは、❻命を与える霊と成ったのです。
15:46 しかし、霊のものが最初ではなく、魂のものが最初であり、それから霊のものが来ます。
15:47 第一の人は地から出て、土に属し、❼第二の人は、天から出ています。
15:48 土に属する人に、土に属している人々は同じであり、天上に属する人に、天上に属している人々もまた同じです。
15:49 わたしたちは、土に属する人のかたちを帯びているのと同じように、❽天上に属する人のかたちをも帯びるようになります。(回復訳)

❸わたしの言葉が住むとは、イエスの霊であり、命が住むことなのでしょう。
また、❻命を与える霊とも書かれています。❼最後のアダム(=イエス)は、天からの出自です。
わたしたちは、❽天上に属する人のかたちを帯びるようになるべきです。まとめると、

❶神の中に住むとは、 Ⅰ.いつも主のご臨在の中に浴すること。

❷神があなたがたの中に住む=❸わたしの言葉が住むとは、Ⅱ.命を与えるイエスの霊が心に住み、御言葉に従えるようになること。

御言葉に従うことについて、第1ヨハネには、こうあります。

「『わたしは彼を知っている』と言いながら、彼の戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人の内にありません.
しかし、だれでも彼の言を守っているなら、その人の内で、真に神の愛が全うされているのです。それによって、わたしたちは、彼の中にいることを知ります。
彼の中に住んでいると言う者は、彼が歩かれたように、自らも歩くべきです。」Ⅰヨハネ2:4-6(回復訳)

そして、わたしたちは、Ⅲ.❽天上に属する人のかたちを帯びるのです。

Ⅰ.ご臨在の中で、Ⅱ.命を与える霊に満たされ、主の御言葉に従って生きることが、Ⅲ.天上人のかたち(特性)なのですね。

そうすれば、❹「何でも望むものを求めなさい.それはあなたがたにかなえられる」と言っています。ハレルヤ!「何でも」ですよ!幹に繋がり、外側はご臨在、内側は命を与える霊に満たされるなら、主の御声に聴き従えるようになります。そして、天国に生きる天上人のかたちになりたいです。

エホバの中で喜び楽しみなさい。はあなたの心の求めるものを与えてくださる。」詩篇37編4節(回復訳) 

 

ラケルの忠誠 〜偶像を破棄せよ

ヤコブの妻ラケル嫁ぐ(訂正:故郷を出る)際、父ラバンの大切にした偶像テラピムを家から持ち出し、らくだのくらの下に入れ、その上にすわっていました~その後聖書の記事にはテラピムは出てきません。しかし、私も家族から偶像を取り除きたいと思って位牌を焼き捨てたことがあるので、共感するのですが、ラケルは父ラバンの偶像を捨てるために持ち出したと感じます。偶像は人を束縛し、最終的に災いをもたらします。仏寺の僧侶は、朝から晩まで偶像に束縛された生き方をしています。あそこのお地蔵さんに花を生けて、あの墓に蘇東坡を立て、そこら中にある石像にお供え物をして、香を焚き、神仏習合から神道の種々の偶像にも束縛されて毎日のお勤めに一日を過ごしている。人間として生きる自由を制限され、毎日供養供養とくよくよと死者のことを考え、心も縛られ、まさに呪縛である。ラケルは父を愛しているから、最後に偶像を奪ったのだと感じます。偶像が欲しかったわけではありません。ラケルは、その偶像を何とも思わないから、尻の下に隠して座っていたのです。父をその罪から救うために、偶像を持ち出して捨てたのです。イスラエルの花嫁として、この時ラケルヤコブの神の教えに忠実であったと考えます。

「しかし、ラケルはすでにテラピムを取って、らくだのくらの下に入れ、その上にすわっていたので、ラバンは、くまなく天幕の中を捜したが、見つからなかった。 その時ラケルは父に言った、「わたしは女の常のことがあって、あなたの前に立ち上がることができません。わが主よ、どうかお怒りにならぬよう」。彼は捜したがテラピムは見つからなかった。」
‭‭創世記‬ ‭31:34-35(口語訳)

アブラハムからの祝福が、ヤコブにも及んでいたことがわかります。それを、ラケルがさらに増し加えたのです。実家の偶像崇拝をやめさせるために、ラケルは尻の下にテラピムを隠し、持ち出し、捨てたのです。ラケルの行為がヤコブの祝福を増し加えました。ヤコブは、イスラエル12支族の祖となりその子孫は、今に至るまで栄えているのです。

 

レーマを読み解く19 〜ひとつの目で、父の御顔を仰ぐ

マタイ18章より
18:9 もし、あなたの目(複数)があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい.❶両目を持ったまま火のゲヘナに投げ込まれるよりは、❷片目で命に入るほうがよい。
18:10 これらの小さい者(おさな子)の一人をもさげすむことがないように、注意しなさい.わたしはあなたがたに言っておく.天にいる彼らの❸御使いたちは、天におられるわたしのの御顔を、❹いつも見ているのである。マタイ18:9-10(回復訳)

以上は、おさな子を示して、「小さい子供のようにならなければ、決して天の王国に入ることはない。」と言った有名な箇所の続きです。その中で、「目(複数)があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい.❶両目を持ったまま火のゲヘナに投げ込まれるよりは、❷片目で命に入るほうがよい。」と言っています。我々の目は、この世のものにとらわれ、それを見つめます。たとえば、宝石店のジュエリーを見ると、輝く宝石に魅了される女性は多いはずです。エバが善悪を知る実を見て、魅了されたように、我々の目が見つめる対象に魅了されます。天国を見るのであれば、天国のすばらしさに魅了されることでしょう。しかし、この世の物を見つめて、それに魅了されるなら、天国は見えなくなります。我々の心の目を天に向けるべきです。ここでは、この世のものを見つめる❶両目でなく、❷ひとつの目で天国を見つめ、天国へ入れと言っているのです。
同じ個所をマルコ10章では、こう書いてあります。
10:14しかし、イエスはそれを見て、憤って彼らに言われた、「小さい子供たちをわたしに来させなさい。彼らをとどめてはならない.の王国は、このような人たちのものだからである。
10:15 まことに、わたしはあなたがたに言う.だれでも小さい子供のように❺の王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはない」。マルコ10:14-15(回復訳)
ここで子供のように❺神の王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはないと言っています。「子供のように神の王国を受け入れる」。このために必要なのは❷片目=ひとつの目です。また、「天にいる彼ら(おさな子たち)の❸御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔を、❹いつも見ているのである。」と言っています。神の王国を受け入れるおさな子には、天に❸御使いがついています。天に入る者には、御使いが付くのです。そして、御使いは、父の御顔を❹いつも見ているのです。われわれも、ひとつの目で天に入り、父の御顔をいつも見る者になりとうございます。