神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

✟祈りの中で97 ~偽善者よ目の梁を取り除け

今日は、実生活の中で自身には何も良いものがないことを体感しました。都合の悪いことに嘘をつく自分。やっぱり「自分には何も良いものはない」。そして、聖霊様と主のご臨在を意識しなければ、まちがいなく肉のアダムが出てくるのです。本当に残念な者です。

「『わたしは彼を知っている』と言いながら、彼の戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人の内にありません.」Ⅰヨハネ2:4(回復訳)

まったく、自身は偽り者でしかないのです。しかし、贖われた今、もはや自分を見ているヒマはないのです。

ここ数日、「目の中の梁」について聞いていますが、礼拝の中でインスピレーションが来ました。マタイ7章より。

7:3なぜ、あなたの兄弟の目にある❶ちりを見ながら、自分の❷目にある❸梁に気づかないのか?

7:4見よ、❸梁があなたの目にあるのに、どうしてあなたの兄弟に、『あなたの目から❶ちりを取らせてください』と言うことができようか?

7:5偽善者よ、まずあなたの目から❸梁を取り除きなさい.そうすれば、あなたは、❹はっきり見えるようになって、あなたの兄弟の目から❶ちりを取り除くことができる。マタイ7:3-5(回復訳)  

 「❸梁(はり、りょう)とは建物の水平短径方向に架けられ、床や屋根などの荷重を柱に伝える材」とあります。それは、水平に架けられる木材です。なぜ、❷目の中の❶「ちり」と比べて❸「梁קורה」があると言ったのでしょうか。「大きなごみ」「木切れ」「とげ」「丸太・柱」でもいいのではないでしょうか。よりによってあまり馴染みのない❸「梁」と言う言葉を遣うのには、何か理由があるはずです。

マタイ22:36-40より

「先生、律法の中でどれが大切な戒めですか?」

エスは彼に言われた、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが大切な第一の戒めである。第二もそれと同じである.『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。これら二つの戒めに、すべての律法と預言者がかかっている」。(回復訳)

「On these two commandments hang all the law and the prophets.」
‭‭Matthew‬ ‭22:40‬ ‭KJV‬

すべての律法と預言者が架かっているのです。どこに?主に向かう縦の戒めと隣人に向かう横の戒めに架かっているのです。

 ❷目の中の❸梁とは、十字架の横木のようです。それは、縦の柱とクロスします。縦の柱は、天へ向かうベクトルです。天を見て、天を仰ぎ、天に向かうものです。そして、❸梁(横木)は、左右に水平に向かうベクトルです。梁とは、天に向かわずに、水平にこの世を見渡す世に向かう❷目、世にとらわれた目です。天ではなく、世を見る❷目では、主イエスの言ったように、その闇はどんなに暗いことでしょう。

「偽善者よ、あなたの❷目に❸梁があるから、はっきり見えない」と言っています。「❸梁を取り除きなさい.そうすれば、あなたは、❹はっきり見えるようになる」と言っています。❸梁(横木)のように、つまり、この世を地面に平行に見渡しているから、はっきり見えないと言っているのでしょう。❸梁(横木)ではなく、天へと目を注いでいれば、光が射して見えるようになります。この世の一時の不都合によって嘘をついたり、この世の価値観で生きることもなく、兄弟の方向を見て兄弟のあらを探し裁くこともないはずです。

そして、天に目を向けつづけるなら、兄弟の目からも❶ちりを取り除くこと=天へ目を向けるように導けるのでしょう。この世とのしがらみで自身がゆがめられ、嘘をつき、罪を犯す。それは、この世に❷目を向けているからなのでしょう。私自身の罪の性質は、この世との関係で構築されてしまいます。しかし、天に向かう縦の柱、第一の戒めである「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたのであるを愛しなさい。」マタイ22:37が優先されるべきなのでしょう。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし愛するには、であるを見つめ続けることが、鍵となるはずです。

「わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるエスを、ひたすら見つめていなさい.ご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そしての御座の右に座しておられるのです。」へブル12:2(回復訳)

偽善者にならないためには、この世に目を向ける横方向の❸梁を取り除き、縦方向の天に目を向け、をひたすら見つめ続けることなのですね。そして、主を思うときに、はっきり見えるようになり、自分と同様に隣人を愛することが可能になるのですね。他に目をうばわれやすいこの者も、早くそんな生き方をしたいものです。

adonaiquovadis.hatenablog.com

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祈りの中で 96 〜キリストの血潮に繋がる ぶどうの枝

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※自宅の葡萄 昨年撮影

祈りの中で、キリストの十字架が見え、そこから枝が伸びて自身に繋がる幻を見ました。その枝から、主イエスの血潮が流れ込んでくるのです。そして枝は私の父母や家族や近しい者に繋がって伸びていくのです。天に宝(心臓)を預けた私の身体に主イエスの霊(血潮)が流れ込んでくるのです。ハレルヤ!

15:5 わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人が❶わたしの中に住んでおり、❷わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。
15:6 わたしの中に住んでいない者は、枝のように投げ捨てられて枯れてしまう.人々はそれを集めて、火の中に投げ込むので、それは焼かれる。
15:7 あなたがたが❶わたしの中に住んでおり、❸わたしの言葉があなたがたの中に住んでいるなら、❹何でも望むものを求めなさい.そうすれば、それはあなたがたにかなえられる。ヨハネ15:5-7(回復訳)

❶わたしの中に住むとは、主のご臨在の中に浴することなのでしょう。「住む」とは、家に帰るような感覚です。学校や仕事から毎日帰ってくる住処のように、毎日神のもとに帰り、そこで長い間とどまることです。

❷「わたしもその人の中に住む」とは、❸「わたし(=イエス)の言葉があなたがたの中に住む」ことです。それは、御言葉をたくさん読み、暗記することでしょうか?それも有用です。

ヨハネ6:63には、「命を与えるのはその霊である.肉は何の役にも立たない.わたしがあなたがたに語った❺言葉は霊であり、命である。」とあります。イエスが語った❺言葉は霊であり、命であり、ただの印刷された言葉ではなさそうです。

また、第1コリント15章には、次のように霊と命について書いてあります。

15:45 そこで、「最初の人、アダムは、生きた魂と成った」と書かれていますが、最後のアダムは、❻命を与える霊と成ったのです。
15:46 しかし、霊のものが最初ではなく、魂のものが最初であり、それから霊のものが来ます。
15:47 第一の人は地から出て、土に属し、❼第二の人は、天から出ています。
15:48 土に属する人に、土に属している人々は同じであり、天上に属する人に、天上に属している人々もまた同じです。
15:49 わたしたちは、土に属する人のかたちを帯びているのと同じように、❽天上に属する人のかたちをも帯びるようになります。(回復訳)

❸わたしの言葉が住むとは、イエスの霊であり、命が住むことなのでしょう。
また、❻命を与える霊とも書かれています。❼最後のアダム(=イエス)は、天からの出自です。
わたしたちは、❽天上に属する人のかたちを帯びるようになるべきです。まとめると、

❶神の中に住むとは、 Ⅰ.いつも主のご臨在の中に浴すること。

❷神があなたがたの中に住む=❸わたしの言葉が住むとは、Ⅱ.命を与えるイエスの霊が心に住み、御言葉に従えるようになること。

御言葉に従うことについて、第1ヨハネには、こうあります。

「『わたしは彼を知っている』と言いながら、彼の戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人の内にありません.
しかし、だれでも彼の言を守っているなら、その人の内で、真に神の愛が全うされているのです。それによって、わたしたちは、彼の中にいることを知ります。
彼の中に住んでいると言う者は、彼が歩かれたように、自らも歩くべきです。」Ⅰヨハネ2:4-6(回復訳)

そして、わたしたちは、Ⅲ.❽天上に属する人のかたちを帯びるのです。

Ⅰ.ご臨在の中で、Ⅱ.命を与える霊に満たされ、主の御言葉に従って生きることが、Ⅲ.天上人のかたち(特性)なのですね。

そうすれば、❹「何でも望むものを求めなさい.それはあなたがたにかなえられる」と言っています。ハレルヤ!「何でも」ですよ!幹に繋がり、外側はご臨在、内側は命を与える霊に満たされるなら、主の御声に聴き従えるようになります。そして、天国に生きる天上人のかたちになりたいです。

エホバの中で喜び楽しみなさい。はあなたの心の求めるものを与えてくださる。」詩篇37編4節(回復訳) 

 

ラケルの忠誠 〜偶像を破棄せよ

ヤコブの妻ラケル嫁ぐ(訂正:故郷を出る)際、父ラバンの大切にした偶像テラピムを家から持ち出し、らくだのくらの下に入れ、その上にすわっていました~その後聖書の記事にはテラピムは出てきません。しかし、私も家族から偶像を取り除きたいと思って位牌を焼き捨てたことがあるので、共感するのですが、ラケルは父ラバンの偶像を捨てるために持ち出したと感じます。偶像は人を束縛し、最終的に災いをもたらします。仏寺の僧侶は、朝から晩まで偶像に束縛された生き方をしています。あそこのお地蔵さんに花を生けて、あの墓に蘇東坡を立て、そこら中にある石像にお供え物をして、香を焚き、神仏習合から神道の種々の偶像にも束縛されて毎日のお勤めに一日を過ごしている。人間として生きる自由を制限され、毎日供養供養とくよくよと死者のことを考え、心も縛られ、まさに呪縛である。ラケルは父を愛しているから、最後に偶像を奪ったのだと感じます。偶像が欲しかったわけではありません。ラケルは、その偶像を何とも思わないから、尻の下に隠して座っていたのです。父をその罪から救うために、偶像を持ち出して捨てたのです。イスラエルの花嫁として、この時ラケルヤコブの神の教えに忠実であったと考えます。

「しかし、ラケルはすでにテラピムを取って、らくだのくらの下に入れ、その上にすわっていたので、ラバンは、くまなく天幕の中を捜したが、見つからなかった。 その時ラケルは父に言った、「わたしは女の常のことがあって、あなたの前に立ち上がることができません。わが主よ、どうかお怒りにならぬよう」。彼は捜したがテラピムは見つからなかった。」
‭‭創世記‬ ‭31:34-35(口語訳)

アブラハムからの祝福が、ヤコブにも及んでいたことがわかります。それを、ラケルがさらに増し加えたのです。実家の偶像崇拝をやめさせるために、ラケルは尻の下にテラピムを隠し、持ち出し、捨てたのです。ラケルの行為がヤコブの祝福を増し加えました。ヤコブは、イスラエル12支族の祖となりその子孫は、今に至るまで栄えているのです。

 

レーマを読み解く19 〜ひとつの目で、父の御顔を仰ぐ

マタイ18章より
18:9 もし、あなたの目(複数)があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい.❶両目を持ったまま火のゲヘナに投げ込まれるよりは、❷片目で命に入るほうがよい。
18:10 これらの小さい者(おさな子)の一人をもさげすむことがないように、注意しなさい.わたしはあなたがたに言っておく.天にいる彼らの❸御使いたちは、天におられるわたしのの御顔を、❹いつも見ているのである。マタイ18:9-10(回復訳)

以上は、おさな子を示して、「小さい子供のようにならなければ、決して天の王国に入ることはない。」と言った有名な箇所の続きです。その中で、「目(複数)があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい.❶両目を持ったまま火のゲヘナに投げ込まれるよりは、❷片目で命に入るほうがよい。」と言っています。我々の目は、この世のものにとらわれ、それを見つめます。たとえば、宝石店のジュエリーを見ると、輝く宝石に魅了される女性は多いはずです。エバが善悪を知る実を見て、魅了されたように、我々の目が見つめる対象に魅了されます。天国を見るのであれば、天国のすばらしさに魅了されることでしょう。しかし、この世の物を見つめて、それに魅了されるなら、天国は見えなくなります。我々の心の目を天に向けるべきです。ここでは、この世のものを見つめる❶両目でなく、❷ひとつの目で天国を見つめ、天国へ入れと言っているのです。
同じ個所をマルコ10章では、こう書いてあります。
10:14しかし、イエスはそれを見て、憤って彼らに言われた、「小さい子供たちをわたしに来させなさい。彼らをとどめてはならない.の王国は、このような人たちのものだからである。
10:15 まことに、わたしはあなたがたに言う.だれでも小さい子供のように❺の王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはない」。マルコ10:14-15(回復訳)
ここで子供のように❺神の王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはないと言っています。「子供のように神の王国を受け入れる」。このために必要なのは❷片目=ひとつの目です。また、「天にいる彼ら(おさな子たち)の❸御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔を、❹いつも見ているのである。」と言っています。神の王国を受け入れるおさな子には、天に❸御使いがついています。天に入る者には、御使いが付くのです。そして、御使いは、父の御顔を❹いつも見ているのです。われわれも、ひとつの目で天に入り、父の御顔をいつも見る者になりとうございます。

💖武器ではなく命の水を ~医師・中村哲とアフガニスタン(ETV)

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神は、どちらを支持されるだろう?

思想の違いや一部のテロリストを理由に貧しい国を空爆することか、それとも彼らの命を救うことか?

マタイ5章より

5:43『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われたことを、あなたがたは聞いている。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う.あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい.
5:45 それは、あなたがたが、天におられるあなたがたの父の子となるためである.なぜなら父は、悪しき者にも善なる者にも彼の太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださるからである。マタイ5:43-45(回復訳)

 私は、中村医師と同じ日本人であることを誇りに思う。そして、圧倒的な武器で人を殺す欧米のキリスト教国と同じに見られることを恥じる。

主イエスが、今の時代に生きておられたら、アフガニスタンへ行って、彼らのためにもご自身の命をお捨てになっただろう。 イスラム教徒は、主イエス預言者として尊崇しています。アフガニスタン人は、欧米人よりもずっと信仰深く忍耐強い民族であることがわかります。

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マルワリード用水路 参考地図