アフリカでの主の御業を紹介します。
レーマを読み解く18 小さい子供のようになるとは...
小さい子供のようにならなければ、天の王国に入ることができません。
マタイ18章より
18:1その時、弟子たちはイエスの所に来て言った、「それでは、天の王国ではだれが一番偉いのですか?」
18:2 そこで、イエスは一人の❶小さい子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて
18:3 言われた、「まことに、わたしはあなたがたに言う.あなたがたが❷転機して❶小さい子供のようにならなければ、❸決して天の王国に入ることはない。
18:4 だから、この小さい子供のように❹へりくだる者が、❺天の王国で一番偉いのである。マタイ18:1-4(回復訳)
弟子たちの「天国では誰が一番偉いのですか」と言う質問に対し、イエスは、小さな子供を示して、あなた方が❶転機して❷小さい子のようにならなければ、❸決して天国に入ることできないと言われました。この「❶転機して」という言葉は、英語では”convert”という言葉が使われています。つまり、敬愛する師が使っていたコンバージョンの動詞形です。「方向転換」とでもいう意味です。それもこのコンバートをしなければ、❸決して天国には入れないと言っています。今までの生き方を回心し、方向転換し、小さい子供のようになるのでなければ、❸決してと言っていますが、天国には入れないのです。
それでは❶小さい子供のようになるとは、いったいどのようなことを指しているのでしょうか。
「この小さい子供のように❹へりくだる者が、❺天の王国で一番偉いのである。」とあります。「へりくだる」とはどういうことでしょうか?大人のように、自分を卑下し、腰の低い生き方をすることでしょうか?
子供は、そんなことをしません。子供の特性として、自分の心に素直であることがわかります。心の思いをそのまま表現し、人から言われたことに素直に従う傾向があります。この「❹へりくだり」とは、イエスの言葉に従い、ひとつのことに対して、集中し、二心ではなく素直に信じることを指していると思います。
また、マルコ10章では、こうあります。
10:14しかし、イエスはそれを見て、憤って彼らに言われた、「❶小さい子供たちを❻わたしに来させなさい。彼らをとどめてはならない.神の王国は、このような人たちのものだからである。
10:15 まことに、わたしはあなたがたに言う.だれでも❼小さい子供のように神の王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはない」。マルコ10:14-15(回復訳)
ここでは、❼子供のように神の王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはないと言っています。「子供のように神の王国を受け入れる」。これが「❹へりくだる」の意味であると考えられます。
実は、神の王国に出入りする者には、小さい子供が多いのです。
子供のように、辛いことがあれば、すぐにお父さんのところに泣きながら駆け寄っていく。問題が解決しなければ父を探し、いつまでも泣き叫び頼むはずです。また、嬉しいことがあれば、お父さんのところに笑顔で駆け寄っていく。何もなくても、愛するお父さんのところに、いつも行きたいと願うはずです。「❶小さい子供たちを❻わたしに来させなさい。彼らをとどめてはならない.神の王国は、このような人たちのものだからである」と主は言われるのです。神の王国には、子供のように素直に神様のみ前近くに生きる者が入れるのですね。
死人が生き返る圧倒的な奇跡力 ~弟子たちの殉教の理由(奇跡29)
キリスト教が広く信仰された理由は、圧倒的な奇跡力
なぜ、イエスの弟子たちは、ローマの迫害の中、命を懸けて、最期は殉教すら厭わなかったのでしょうか?
ここに、他の宗教では見いだせないような、信ずるに値する驚くべき事実があったという証拠を知るのです。
【殉教に突き進んだ使徒たち】
ペテロの弟アンデレ:ギリシャではりつけの刑で殉教
バルトロマイ:アルメニアで鞭打ちにより殉教
アルパヨの子、小ヤコブ:イスラエルの神殿で石打の刑で殉教
ゼベダイの子、大ヤコブ:ヘロデにより斬首され殉教
ヨハネ:パトモス島へ幽閉、釈放後老齢で生涯を終える
マタイ:ヒエラポリスで刀で斬られ殉教
ペテロ:ローマで逆さはりつけの刑で殉教
ピリポ:はりつけの刑で殉教
熱心党のシモン:ギリシャで鋸で2つに斬られ殉教
タダイ:アルメニアで斧で撃たれ殉教
トマス:南インドで槍で刺され殉教
イスカリオテのユダ:イエスを裏切り自殺
マッテヤ:ユダの代わりに使徒となったが石打ちの刑の後、斬首され殉教
パウロ:最初は、弟子たちを迫害し、ステパノを殺すときにもそばにいたユダヤ教徒でした。彼は、弟子ではなく、イエスに会ったこともなかった。しかし、復活したキリストに出会い、神の光に打たれて一時盲目になり、その後キリスト者によって癒されます。回心し、自分もキリスト者になり使徒に数えられ、宣教に邁進しますが、ローマで斬首され殉教しました。
*以上、聖書記事や伝承による
弟子たちの殉教の歴史を知ると、原始キリスト教が「本物だったんだなぁ」とわかります。疑い深かったユダヤ人が、ウソ偽りのある曖昧なもののために命を捨てはしません。
彼ら弟子たちが約3年間を一緒に過ごし、目の前で見てきたイエスが、いかに真実な方であり、その事実としての奇跡力を目の前で示していたかがうかがえます。当時彼らが間近で体験した福音書にある記述が、そのまま真実であったからこそ、弟子たちは殉教までも厭わず従っていったのです。イエスの預言通りに五旬節に聖霊が降り、あの弱々しい弟子たちですら、イエスのように奇跡を行う者に変えられたのです。イエスが伝えた救いは、圧倒的な奇跡を伴うものであることが、マタイ伝に記されています。
「イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることを(洗礼者)ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。」マタイ11:4-5(口語訳)
弟子たちは、盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人が生きかえる~その事実を目の当たりにしていたからこそ、殉教の死ですらも厭わずに喜びと思っていたのでしょう。ここに真理があります。
世には、たくさんの宗教があり、キリスト教にもたくさんの派や異端があります。自分を再臨のキリストとかたる者が韓国には40人もいると聞きますから驚きです。しかし、その宗教に盲人が見え、足なえが歩き、死人が生き返るような奇跡があるでしょうか。
原始キリスト教では、死んだ少女やラザロがイエスによって生き返り、3階から落ちて死んだ者もパウロを通して生き返り、ペテロは、病死したタビタを生き返らせています。
当時、圧倒的な奇跡が起きていました。漁師や取税人、そんな弟子たちが、圧倒的な奇跡を目の当たりにして、殉教まで従う者になりました。
当時だけではない。現代でも、タンザニアの教会などで死人が生き返る奇跡が起きています。
また、敬愛する師も、主の御名により、死人を生き返らせたことがあります。
過去の記事から掲載します。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
塩原聖会参加者の話より~「1960年8月、私(日本基督教団牧師)は聖会に初めて参会した。聖会二日目、滝浴びの最中、小菅さんが倒れ、引き上げられた時には、すでに瞳孔が開いており、チアノーゼが出、脱糞で死んでしまった。その時、伝道者たちが7,8人、一生懸命に祈ったが駄目でした。先生がやってきてフーッと息かけて按手して祈ると、たちまち甦ったのをこの目で見て、本当にビックリした。 中略 ○○館社長が6つの重病から全く癒されたのもこの聖会であった。私の所属していた日基教団の牧師も『聖書にある癒しなどは、昔のことで今はない。』と説教している状況である。しかし、その塩原の聖会で、目の前で死人が蘇生し足萎えが立つ、聖書の生きた事実を見ては、自分が回心して全くひっくり返ってしまった。」~以上証しよりシェアします。
昔も今も、2000年前と同じ力ある奇跡が、我が主イエスの前で起こり続けているのです。ことばや理屈ばかりの宗教は、大嫌いです。イエスの福音は、その奇跡力にあります。言いわけばかりの宗教は「ただ信ぜよ、信仰によってのみ救われる」と言います。しかし、その肝心の「信仰」があるのでしょうか?何の奇跡も伴わない弟子に対して、主イエスは「おまえたちの信仰がないのはどうしたことか!」と叱りつけることでしょう。真実は、その実を見て判断すべきです。辛子だねほどの信仰があれば山は動くはずです。盲人が見え、足なえが歩き、死人が甦るはずです。
「イエス・キリストは昨日も今日も、永遠に同じです。」ヘブル13:8(回復訳)
PS.「なぜなら、あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰を通してであって、これは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物であるからです.」エペソ2:8
救いの基本は、恵みであり、神の賜物です。長血の女のように、なんとしても神に近づき、いただく恵みです。その圧倒的な奇跡が、霊的なエクレシア(教会)にも現れています。
敬愛する師は、「救い、癒やす主は、霊界のキリストであって、自分の霊力や信仰力をたのんではならない」と『信仰と希望』で語っています。しかし、ほんの少しの信仰を持ったなら、長血の女のように、なんとしても神に近づき恵みをいただくのです。主イエスのご臨在をありありと感じるほどに、あきらめずに求め続けるのです。
#クリスチャン#奇跡#
💗祈りの中で95 ~心を天へ
🔷「宝ある所に心在り」(ルカ12:34)
祈りの中で、心(心臓)を天に上げること、天の自分の家へ置いてくるように示され、実行した。自分の持つ最高の宝である心臓を、天国に上げてしまうことができると、この世の生活の煩いは、とるにたらないのです。宝とともに心を天に上げてしまうのです。
For where your treasure is, there will your heart be also.(KJV)
For where your treasure is, there your heart shall be also.(Bayit haMashiyach)
これを直訳すると、「あなたの宝があるところだから、あなたの心もそこにあるだろう」と言う意味。
🔷90%の真理と10%の嘘について
以前から、お話ししている、悪魔は、いろいろな宗教家に90%の真理を示し信用させてから、10%の嘘を混ぜ始めることについてです。
真理の基本は十戒です。しかし、その中のいくつかに対し離反させるのが、悪魔の策略です。最初は、複数の戒めを示し、真理を装います。九つの戒めを守るように言っても、ひとつの戒めに対して全く違うことを教えているなら、偽物です。悪魔は、そこから地獄へ引きづりこみます。そんな宗教の最後は、偶像を作ったり、それを拝ませたり、人殺しを許容したりします。調べれば、そんな宗教がたくさんあるのです。それは、本物がどれかわからなくするために、偽物をそばに並べるのと同じです。
映画「インディー・ジョーンズ/最後の聖戦」を観たことがあるでしょうか?最後に聖杯がたくさん出てきて、どれが本物か選ぶシーンがありましたね。同じように、偽物はたくさん並んでいます。どれを選ぶかの基準は、「十戒」が基本なのです。
「わたしが律法や預言者を廃止するために来たと思ってはならない.廃止するためではなく、成就するために来たのである。
まことに、わたしはあなたがたに言う.天地が過ぎ去るまで、律法の一点一画も決して過ぎ去ることはなく、ついにはすべてが実現するのである。」マタイ5:17-18(回復訳)
「『わたしは彼を知っている』と言いながら、彼の戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人の内にありません.
しかし、だれでも彼の言を守っているなら、その人の内で、真に神の愛が全うされているのです。それによって、わたしたちは、彼の中にいることを知ります。
彼の中に住んでいると言う者は、彼が歩かれたように、自らも歩くべきです。」Ⅰヨハネ2:4-6(回復訳)
実際、自分を十戒に照らし合わせると、偽り者でしかありません。しかし、彼(主)の言葉を守ることは、「神の愛の全う」と書いてあります。神の愛の中で全うできる希望があるのです。
祈りの中で92 ~天の家には宝石がたくさんころがっている
今日の礼拝は、神様の強いご臨在があり感謝でした。母の隣の若い女性も、聖いご臨在でずっと泣いていました。ソングリーダーも祈り手も声を詰まらせて泣いていました。強いご臨在です。妻も入った瞬間から(涙で)だめだったと言っています。その中で、天が降りてきて、天の街が見え、自分の家が見えました。自分は、今まで天に家などない、天の礼拝所(大庭)が自分の家だと思っていました。しかし、今日見た部屋には、赤、緑、金、黄色、青、紫....たくさんのカラーボール大の円い宝石が転がっていました。それぞれが、御霊の性質、品性であることがわかります。たくさんある宝石は、会衆の皆さんの心に投げかけられました。近視眼的な幻ですので、ぼんやりなのですが、さらに上から見ると天の街はとても広く黄金に輝いて見えました。このご臨在は、御霊を受けた❶全会衆が感じることができるはずです。天の牧場に自由に出入りする祝福です。
「わたしは門である.❶だれでもわたしを通って入る者は救われ、また入ったり出たりして、牧場を見いだす。」(ヨハネ10:6)回復訳
※天の幻の部分は、わたしが見たもので”幻”です。誰かのイメージが天では現実化されるので、そのまま信じなくて結構です。ご自分で見にいけばいい。❶だれでもわたしを通って入る者は救われ、 入ったり出たりして、牧場を見いだすとあります。主イエスにお願いしてみてください。
※もう少し整然とした平地の都