神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

礼拝する対象は、「父」

私たちは、教会の礼拝の中や祈りの中で、「神さま」と呼んだり、「イエス様」と呼びかけたりします。しかし、時々、だれに向かって祈っているのかわからないような祈りも聞くことがあります。

 

イエスは、マタイ伝6章の主の祈りで、「天のお父様」と呼ぶように言っています。

マタイ6:9〜直訳に近い形で訳した主の祈りの冒頭を再掲出します〜

「(諸々の)天国(複数)にいます我等の父よ、あなたの御名が聖とされますように。」(私訳)

 

また、礼拝については、ヨハネ4章で父を礼拝することを話しています。

 

ヨハネ4章

4:21

イエスは彼女に言われた、「女よ、わたしを信じなさい.あなたがたがこの山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来ようとしている。
4:22

あなたがたは、知らないものを礼拝している.わたしたちは、知っているものを礼拝している.救いはユダヤ人から出るからである。
4:23

ἀλλὰ  ἔρχεται  ὥρα  καὶ  νῦν  ἐστιν  ,  ὅτε  οἱ  ἀληθινοὶ  προσκυνηταὶ  προσκυνήσουσιν  τῷ
  Πατρὶ  ἐν  πνεύματι  καὶ  ἀληθείᾳ  ;  καὶ  γὰρ
  ὁ  Πατὴρ  τοιούτους  ζητεῖ  ,  τοὺς  προσκυνοῦντας  αὐτόν .

しかし、真の礼拝者たちが、霊と真実の中で父(Πατρὶ)を礼拝する時が来る.そしてそれは今である.父(Πατὴρ)はそのように彼を礼拝する者を、捜し求めておられるからである。
4:24

神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない」。(回復訳)

 

つまり、主イエスは、天の父に祈り、礼拝せよと言っています。

「主イエスの御名によって祈ることは、御子の権威によって祈るということであり、聖書的祈りのパターンは、『父なる神に向かって、御子イエスを通して、聖霊によって祈る』ということです。このことを認識し、祈りの力を体験しようではありませんか。祈りは賛美、礼拝、そして神との対話です。」と中川健一牧師も説明されています。

 

礼拝について上手く理解するためには、黙示録4章の天の礼拝を参考にすると良いでしょう。

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/08/06/024701

 

しかし、ペンテコステの日に、ペテロが解き明かした使徒行伝2章36節が大切だと感じます。

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2019/01/23/043425

 

 

霊眼が開かれるとき2 〜サンダー・シングSS25

東洋の聖フランシスコとよばれたインドの聖人サンダー・シングは、その著書「霊界の黙示」の中で、霊の目が開かれたときのことについて語っています。

サンダー・シングの話

❶ひとりで祈っていたある日のことである。私は突然、霊的な存在の大群衆に囲まれているのに気づいた。あるいは、私は霊の目が開かれたとたん、聖徒や天使の大集団の前で頭を垂れているのに気づいたといってもいいかもしれない。彼らの明るく光り輝く状態を目にし、自分自身の劣った状態とそれを比較して、最初はなんとなく決まりが悪かった。しかし、彼らのその思いやり、愛から生じる親しみやすさとによって、すぐにくつろいだ気持ちになれた。私はその時もう、神の御前にいる時の安らぎを経験して知っていたのだが、これらの❷聖徒たちとの交わりは、私に新たな素晴らしい喜びをもたらしてくれた。一緒に話をしているとき、私を悩ませていた多くの問題や悩みについて質問し、彼らから答えを得ることができた。

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私は❸幻の中で、霊の世界に着くや否や自分の神を探し始めた。偶像崇拝者の霊を見た。その時聖徒は彼に「ここには唯一真である神とその神の顕現であるキリストのほかに神はいない」と言った。これを聞いたその人は非常に驚いたが、真理の誠実な追求者であったので、彼は自分の間違いを素直に認めた。彼は真理に関する正しい考え方をどうしても知りたかった。そこで彼は、キリストに会えるかどうか尋ねた。この後ほどなく、キリストは彼と、霊の世界に着いたばかりの人々の前に、薄暗い光の中で自身を現した。なぜなら、まだこの段階にいる彼らは、神の栄光を十分に見せられることに耐えられなかったに違いないからである。神の栄光はあまりにも大きいため、天使たちでさえ、神を見るのに困難で、その翼で顔を覆っているほどなのである(イザヤ書6:2)。キリストが誰かに自身を現すとき、それぞれの魂が達した心の成長段階を考慮に入れる。❹キリストは自分の御姿を目に耐えられるようにするため、ぼんやりと、あるいはもっと栄光に輝いて自身を現す

それ故、これらの霊が薄暗いながらも魅力的な光の中でキリストを見たとき、彼らは、私たちの表現力を超越した喜びと平和に満たされるのである。生命を与える神の光を浴びて、絶え間なく溢れ出る神の愛の波によって、彼らの誤りは、全て洗い流されてしまった。彼らはその時神の真なることを心から悟り、癒しを見つけて神の前に低く頭を垂れて感謝の心で神を称えるのだった。そして彼らの指導に指名されていた聖徒たちもまた、彼らを見て喜んだ。

〜以上サンダー・シング  「霊界の黙示」より

  サンダー・シングは、❶ひとりで祈っているときに、霊の目が開かれ、霊的な存在の大群衆に囲まれているのに気づいた。強く粘っこい臨在を経験している方は、霊眼が開かれると、聖徒や天使の大集団が見えるかもしれません。

また、❷聖徒たちとの交わりが可能となり、一緒に話をしているとき、私を悩ませていた多くの問題や悩みについて質問し、彼らから答えを得ることができたとあります。主イエスから、直接聞くことも可能なはずです。

また、❸幻の中で、霊の世界に着くと言っています。ひとつの眼(霊眼)は、天に至る門でもあります。そこでキリストを拝するのです。❹キリストは自分の御姿を各自の目に耐えられるようにするため、ぼんやりと、あるいはもっと栄光に輝いて自身を現すとありますが、各自の段階で、神の栄光を十分に見せられることに耐えられない私のような者には、はっきりとはご自身を現せないのでしょう。天をぼんやりとしか見えない理由について、先日示されたときと同じ内容をサンダーが話しているので、驚いています。

イザヤ6章

6:2その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、
‭‭6:3互に呼びかわして言った。「聖なるかな聖なるかな聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。( ‭口語訳‬‬)

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/12/25/214000

 

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2019.1.10撮影

 

 

 

 

霊眼が開かれるとき1〜サンダー・シングSS24

東洋の聖フランシスコとよばれたインドの聖人サンダー・シングは、その著書「霊界の黙示」の中で、霊の目が開かれたときのことについて語っています。

サンダー・シングの話

 14年前、コトガルで❶祈りを捧げている時、天上の幻に私の目が開かれた。❷何もかもあまりにも鮮やかに見えたので、自分が死んだに違いない、そして自分の魂が天上の栄光に入っていったのだと思った。しかし、それからずっと、こうした幻は一貫して私の人生を豊かにしてきた。幻は私の意思で呼べるものではなく、祈りや瞑想の最中に、多い時は月に8回から10回も、天の光景を見るために霊の目が開かれ、天上の空間の光の中をイエス・キリストとともに1時間か2時間歩き、天使や霊と話をするのである。私の質問に対する彼らの答えは、これまで出版した私の著作の多くの材料となった。その霊的交わりによる表現できない❸喜悦(エクスタシー)は、救われた者の喜びと交わりに永遠に入るその時(死)を私に恋い焦がれさせる。

これらの幻を単なる降霊術の一種だと考える人もいるだろう。しかし、ただ一つだけ本質的な違いがあることを私は強調したい。降霊術と言うのは、大胆にも霊から出るメッセージや暗示を暗黒界から呼び出すものであるが、実際まやかしとは言わないまでも、一般に断片的でわかりにくいため、弟子たちを真理に近づけるより、遠ざけてしまう。一方こうした幻においては、霊界の栄光のあらゆる部分が鮮やかにはっきりと見え、目に見えるようになった霊界の信じられないほど明るく美しい環境の中で、聖徒たちと真の友情を交わすと言う高揚をした体験をする。目に見えないものから得た曖昧で、部分的で、とらえにくいメッセージではなく、これまで私を悩ませてきた疑問の多くを解明するはっきりした合理的な答えを、これらの天使や聖徒たちから受け取った。

この❹「聖徒の交わり」は、初代キリスト教会が実際に経験した事実だったことから、「使徒信条」の中でも信仰に必要な条項の一つに数えられている。

ある時、私は幻の中で、この聖徒との交わりを示す証拠を、聖書の中から引いてほしいと頼んだことがある。するとそれはゼカリヤ書3章7.8節に明確に記されていると告げられた。「立っているもの」は、天使でもなければ肉や血でできた「人」でもなく、栄光に包まれた聖徒だったと言う箇所である。そして、ヨシュアが❺神の務めを守るなら、彼は「❻ここで仕える者ら(つまり聖徒)のあいだに歩むこと」を許され、それが彼の「同僚」〜つまり、彼と交わることができる、完成された人々の霊〜であると、神は約束する。

本書では、霊や聖徒や天使と言う表現が繰り返し出てくる。私はそれらを次のように区別している。「霊」とは良いものも悪いものもあり、死んだ後で天と地獄の中間の状態にある存在。「聖徒」とは、その状態をくぐり抜けて、霊界におけるもっと高い層に到達した人々で、特別な務めを割り当てられている。「天使」は、ありとあらゆる高級な務めが割り当てられた光り輝く存在である。彼らの中には、ほかの世界や私たちの世から来た聖徒も数多く含まれていて、全員が一つの家族のように一緒に暮らしている。彼らは愛によって互いに尽くしあい、神の栄光の輝きの中で、いつまでも幸福である。「霊の世界」とは、霊が肉体を離れた後に入る中間的な状態のことであり、「霊界」とは底なし穴の暗黒と、光に包まれた神の玉座の中間にある各段階を経て成長する、すべての霊的存在を意味する。〜以上サンダー・シング「 霊界の黙示」より

❶祈りや瞑想の中で霊眼が開かれると、敬愛する師も話していたように、❷何もかもあまりにも鮮やかな天界の景色を見ることができるのです。サンダー・シングも同じことを語っています。しかし、私は、まだ鮮やかに見ることができません。霊眼が涙に曇っているような感じです。まだ心が天界のご臨在に耐えられないのでしょう。しかし、❷鮮やかな視力をずっと求めているのです。サンダーから、学んでいきたいのです。祈りの中で主に会い、❸喜悦の中で❹聖徒や天使との交流をしたいのです。ここでは、ヨシュアが❺神の務めを守るなら、彼は「❻ここで仕える者ら(つまり聖徒)のあいだに歩むこと」を許される〜とあり、❺神の務めを守ることが鍵になるのでしょう。

ゼカリヤ書3章
3:7「万軍の主はこう言われる。もしあなたがわたしの道を歩み/❺わたしの務めを守るなら/あなたはわたしの家を治め/わたしの庭を守る者となる。わたしはあなたが❻ここで仕える者らの/間に歩むことを許す。

3:8大祭司ヨシュアよ/あなたの前に座す同僚たちと共に聞け。あなたたちはしるしとなるべき人々である。わたしは、今や若枝であるわが僕を来させる。(新共同訳)

 

宣教に命をかけてきたサンダーやマハリシに比べたら、私の生き方は、いさぎよくない恥ずかしいものなのです。

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ハレルヤ 〜徳島のお菓子会社

ハレルヤの金長饅頭、とてもおいしいです。絶品です、こんな美味しいお菓子の会社があったんですね。

一流になることが大きな証詞にもなるのですね。

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ハレルヤの命名は、日本キリスト教団小松島教会の故 古角牧師によるそうです。