神の国は、あなたがたのただ中にあり!
マタイ21:23-45
「23イエスが❶宮にはいられたとき、❷祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。
............中略………
42イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた❸石が隅のかしら❸石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には❹不思議に見える』。
43それだから、あなたがたに言うが、❺神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい❻実を結ぶような❼異邦人に与えられるであろう。
44またその❸石の上に落ちる者は❽打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人は❽こなみじんにされるであろう」。
45❷祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟った」。
レーマを読み解く4では、イエスがいちじくの木を枯らす場面について書きました。これは❻実を結ばないいちじくを使って、これから起こることを象徴的に示すためでした。
ある教会で❺神の国について話すと、「神の国は、聖霊です」と話されました。たしかに聖霊様の力が支配する中で、神の国は実現するものであるとは思っています。しかし、もう少し違うことが、聖書の箇所に書いてあります。それは、❶エルサレム神殿で、❷祭司長や民の長老たち、パリサイ人が、イエスに詰め寄ります。「何の権威によって、これらの事をするのですか。」と聞かれたとき、それに対して、イエスは 2つのたとえ話をし、その後で❺神の国について説いています。それは、43節「❷祭司長や長老たちが持っている❺神の国を取り上げ、それを御国にふさわしい❻実を結ぶ❼異邦人に与えてしまう」と言うものでした。それは❷祭司長や長老たちが❶神殿で出会うことのできる❺神の国について話していることがわかりました。神の国は聖霊様だけのことではないようです。もし❷祭司長たちが聖霊を受けているのなら、彼らはイエスを憎んで十字架につける事はなかったでしょう。ここでイエスが言う❺神の国とは、聖霊とは違うことを指し、❶神の宮に関係するものであることがわかります。それはモーセやダビデの時代から現れた神のご臨在であります。
イエスが引用された詩篇118編22-23『家造りらの捨てた❸石が隅のかしら❸石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には❹不思議に見える』という箇所について読み解くと、家造りとは、宮を作り管理する❷祭司長や長老を指します。❸石や岩は、以前にも紹介したように神の「臨在」を指します。
それを示す箇所が創世記28:11~22にあります。
「ヤコブが…
11一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の❸石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。
12時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その❾頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。
13そして主は彼の❿そばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。
14あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって⓫祝福をうけるであろう。
15わたしはあなたと❿共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。
16ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに❿主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
17そして彼は恐れて言った、「これはなんという⓬恐るべき所だろう。これは⓭神の家である。これは⓮天の門だ」。
18ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた❸石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、
19その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。
20ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと❿共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、
21安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。
22またわたしが柱に立てたこの❸石を⓭神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。」
ヤコブは、ベテルで❸石を枕に眠ると、天使が上り下りするはしごを見ます。そのはしごの❾頂は天に通じます。その夢の中で主から⓫祝福を受けるのです。この箇所では「主は彼の❿そばに立って、『15わたしはあなたと❿共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう』と告げられ、ヤコブは『まことに❿主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』と言っています。「❿そばに、❿共に、❿この所におられる」=豊かな「臨在」を見とれる箇所です。そしてヤコブはこのご臨在を「⓬恐るべきところ=⓭神の家=⓮天の門」と言っています。22節で、ヤコブは「❸石を⓭神の家(神のいるところ=臨在)とした」と言っているのです。
マタイ伝に戻ると、旧約時代の豊かな臨在のあった「⓭神の家」は、イエスの時代には、悪事をはかる❷祭司長や長老のゆえに、見ることができなくなりました。家造りらは、❸石=臨在を捨てたのです。そして、捨てられた臨在が隅(異邦人)の❸かしら石になりました。ですから、イエスは「❺神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい❻実を結ぶような❼異邦人に与えられるであろう」と言ったのです。その❺神の国=臨在は、わたしたちの目には「❹不思議に見える❾頂が天に達するはしご=⓬恐るべきところ=⓭神の家=⓮天の門」なのであります。「またその❸石(臨在)の上に落ちる者は❽打ち砕かれ、それ(臨在)がだれかの上に落ちかかるなら、その人は❽こなみじんに(打ち砕かれ、悔い改める)されるであろう」。(マタイ21:44)と言っているのです。これは、毎週のように私も妻も経験しています。経験すればわかります。感謝です!
「神の国は、実にあなたがた(複数形)のただ中にあるのだ」(ルカ17:21)
※ベテル