達磨大師像
使徒トマスは、インドへ伝道に行き、達磨(トマ)とよばれ、インドで殉教したと伝えられています。実際インドでは、すでに二世紀にはキリスト教徒の数もかなりのものになり、三世紀にはキリスト教の団体もありました。
新約聖書外典のトマス行伝には、デドモ、ユダと呼ばれた使徒トマスがインドへ行く顛末について書いてあります。その内容がトマスらしくておもしろいので、紹介します。
~エルサレムで使徒たちは、くじ引きでそれぞれの宣教地を決めました。ユダと呼ばれるトマスは、インドに行くことになります。しかし、トマスはインドへ行くことを嫌がります。
その頃、エルサレムには、インドで宮殿を建築する大工を探しに来たハバンと言う商人が滞在していました。
そのハバンに、復活した主イエスが現れ、大工技術のあるトマスを宮殿建築のための奴隷として売り渡す約束をしたのでした。売り渡すと言っても、主は代価をトマスに渡しています。
ハバンは、トマスに、「イエスは、あなたの主人ですか?」と聞きます。トマスは、「はい」と答えて、覚悟を決めてインド商人ハバンの奴隷としてインドに渡ることになったのです。
トマスがインドに着くと、インドの国王グンダファルのために宮殿を建てることになりました。しかし、奴隷にもかかわらず、インド人に宣教し、多くの実を結ぶのでした。そのあとは、以前の記事をお読みください。
http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2017/12/11/013616
中国の古い達磨大師像を見ますと、ほとんどの像や絵には、必ず耳に大きな耳輪がついています。禅の開祖が大きなイアリングをしているなんて、おかしなことだと思いませんでしたか?かつては、奴隷身分を示すため、耳から外すことのできないタイプの耳輪が用いられていたそうです。
達磨大師には、当時の奴隷のしるしであった耳輪がついていたわけです。つまり、達磨は、奴隷であったわけです。
使徒の布教区域の割当て(M.M.Ninan)
◼︎シモン・ペトロ パルティア(ポントス、ガラテヤ、カッパドキア、アジア、ビテュニア) ブリテン
◼︎アルファイの子ヤコブ スペイン
◼︎ディデュモスのトマス パルティア メディア ペルシア 北西インド (*)
◼︎バルトロマイ パルティア メディア ペルシア 北西インド
◼︎フィリポ スキタイ 小アジア北部
◼︎マタイ パルティア ヒンドゥークシ
*1656年、使徒トマスについて調査するためにローマ法王はカルメル修道会のヴィンチェンゾ・マリア神父をインドへ派遣しました。マリア神父によれば、トマスは、はるか東の中国西安にまで足を伸ばしたといいます。最期は、インド南部のマラバル海岸で福音を伝え、コロマンデル海岸(マドラスとマイラプール)へ移動したあと彼は槍で刺され、殉教者となったそうです。
生命を賭した使徒たちの姿が垣間見れます。
赤い布を纏っているのがトマス、復活のイエスの槍の痕を手で触れ確かめたと伝えられる。トマス自身も最期は槍で刺され殉教しましたが、彼は傷痕を触りながら、復活の主を思い出し喜びのうちに召天したと示されています。