神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

われわれの信仰とは5 〜ピスティスの意味

信仰とは、御救いを完成された❶主イエスご自身の信仰(ピスティス)を指します。彼が完遂された信仰(ピスティス)に乗っかるために、主イエスにより頼み近づく❷我々自身のささやかな信仰姿勢も問われています。

つまり、二種類のピスティスがあるのです。

タイトルの❷「われわれの信仰」は、二番目のものです。

われわれの信仰とは1 で触れましたが、ピスティスの意味は、(信仰,信実・真実)です。ピスティスは、日本語訳にするには、適語がなく、聖書学者によりいろいろなご意見もあるようですが、以下のような感じで訳されてきました。

太田修司、原口尚彰氏:  「信実」

田川健二氏:  「信」

カール・バルト: 「神の信実」〜というニアンスで表現

小川修氏: 「まこと」

聖書協会共同訳: 「真実」

文語訳、口語訳、新共同訳という代表的な聖書は、ピスティスをほぼ一律に「信仰」と訳しています。

しかし『聖書協会共同訳』では、従来の「❷(キリストを信じる)信仰」に加えて、パウロの手紙(ローマ書、ガラテヤ書)に「❶(キリストの)真実」という言葉が加えられました。

私は、❶キリストが完遂されたピスティスについては、一語で表さず、「信仰,信実・真実」の全ての意味に「❸実体化」を付加して考えています。

なぜ、「❸実体化」かというと、ヘブル11章を読むと出てくるキーワードだからです。

「さて信仰とは、望んでいる事柄を❸実体化することであり、見ていない事柄を❹確認することです。」(ヘブル11:1)回復訳

これは、先のスポットライト理論とも関係しています。

https://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2023/04/01/060458

過去、現在、未来は、同じ空間に存在しており、過去に十字架に架かられ、未来を見据えて❶主イエスご自身のピスティスで完成された御救いを❸実体化し、❹確認することなのです。

ピスティスを用いてイエスが完遂された救いを時を超えて❹確認し、われわれが乗っかることで「❸実体化」されている救いを受けるのです。

 

まさに、ピスティスは、真実・信実であり「実体化」なのです。

https://luther.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=661&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

 

 

主がその❶ピスティスでなされた救いの御業に対して、我々にも❷ピスティスの大小があることは、福音書からもわかります。

今まで、信仰とは、どれだけ主イエスに近づく(近接する、共に歩む、求める)ことであるかということを伝えてきましたが、ピスティスの創始者、御救いを完成されたイエスご自身の実体化に比べれば、我々のピスティスは、芥子だねほどの小さなものです。しかし、我々にも❷我々自身が評価されるべきピスティス(実体化)はあります。主イエスは、❷我々のピスティスを大小で表されました。

マタイ伝8章には、ピスティスの大小についての記事があります。

「8しかし、その百人隊長は答えて言った、「主よ、あなたをわたしの屋根の下にお入れするのに、わたしはふさわしくありません.ただ一言お言を下さい.そうすれば、わたしのしもべはいやされます。
9というのは、わたしも❺権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒たちがいるからです。そこで、わたしがこの者に『行け』と言えば、彼は行き、あの者に『来い』と言えば、彼は来ますし、わたしの奴隷に『これをせよ』と言えば、彼はそれを行なうのです」。
10イエスはこれを聞くと、驚いて、従っている者たちに言われた、「まことに、わたしはあなたがたに言う.イスラエルのうちのだれにも、わたしはこれほど❸大きな信仰を見たことがない。

11しかし、わたしはあなたがたに言う.多くの者が東からも西からも来て、天の王国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に食卓に着く.

12しかし、❻王国の子たちは外の暗やみに放り出される。そこでは、❼泣き叫んだり歯がみしたりするであろう」。」マタイ8:8-12(回復訳)

8章12節 フットノート❹
王国の子たちとは、良い種である救われたユダヤ人のことです(13:38)。しかし狭い門を入り、細い道を歩く強い信仰がない者たちは(7:13―14)、王国の出現の時、宴席にあずかることができません(ルカ13:24―30)。回復訳

 

部下の癒しを求めた異邦人の百人隊長に対し、主イエスは驚きを持って「これほど❷大きな信仰(ピスティス)を見たことがない」とほめられました。

エスの救い主としての❺権威に信頼する異邦人百人隊長に比べて、信仰の小さな「❻王国の子たちは外の暗やみに放り出されるぞ。❼泣き叫んだり歯がみしたりするであろうぞ」とまで、言わしめたのです。

❻王国の子たちは、ユダヤ人であります。イエスには、実際に会っている(物理的に近づいている)が、救い主としてのイエスを受け入れられずに遠ざかってしまう者たちや、その救いの権威、癒しの権威に半信半疑でありイエスから距離を置く者たちのことです。

つまり、主人の言葉に対し「『行け』と言えば、彼は行き、『来い』と言えば、彼は来る」主人の❺権威下にある者になれず、主人の言葉の権威を無視する ふた心の者です。彼らはピスティスの小さい者と呼ばれたのです。権威の下にいるかどうか、この差が、ピスティスの大小とされて評価されたのです。

物理的に距離は近づいているが心根は遠く、イエスを主としていない者たちが、「外の暗やみに放り出され、❼泣き叫んだり歯がみしたりするであろう」と言われるのです。

同じように主イエスの十字架の隣で処刑された二人の罪人。その一人は、イエスに救いを乞い、パラダイスに行きました。

「イエスは彼に言われた、「まことに、わたしはあなたに言う.今日あなたは、わたしと一緒にパラダイスにいる」。」(ルカ23:43)回復訳

『行け』と言えば、彼は行き、あの者に『来い』と言えば、彼は来ます。イエスに近接し、その権威を受け入れた罪人は、パラダイスに行きました。

しかし、もう一人の罪人はどうでしょう。イエスの隣に近接しながら、イエスを罵った。彼は、「今日パラダイスにいる」とは言われなかったのです。

 

今まで信仰とは、近づくことだと言ってきました。しかし、距離が近づいただけでは、救い主を確認できない者たちも多かったのです。

つまり、イエスをただの世迷言を言う変人のように考え、主イエスの権威により頼まず、何も求めなかった者たち。救い主であるイエスを確認できない者たちは、外の暗やみに放り出され、❼泣き叫んだり歯がみしたりするのです。

われわれは、❶主イエスが時を超越して開かれた救いのピスティス(実体化)にあずかるために、救いや癒しを求めて近づくことが必要です。それが❷われわれのピスティス(❸実体化)なのです。

大河ドラマ、「どうする家康」で武田信玄が、息子の勝頼を前に「勝者はまず勝ちて、しかる後に戦いを求め、敗者はまず戦いて、しかる後に勝ちを求む。わっぱよ。戦(いくさ)は勝ってから、始めるものじゃ」と語った言葉が心に残っています。ピスティスの奥義がここにも見られますね。

「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」
‭‭マルコによる福音書‬ ‭11‬:‭24‬ 新共同訳‬
https://bible.com/bible/1819/mrk.11.24.新共同訳

「ああ、わたしはこれほど❷大きなピスティス(信仰、真実・信実、実体化)を見たことがないぞ!」と言われるように、主イエスの開かれた救いのピスティスにより頼み、祈りの中で主に近づき求め、すでに完遂された❸実体を❹確認していきましょう。

 

「そこで、わたしはあなたがたに言う.求めよ、そうすれば、与えられる.捜せ、そうすれば、見いだす.門をたたけ、そうすれば、開かれる。
すべて求める者は受け、捜す者は見いだし、門をたたく者には開かれるからである。」(ルカ11:9-10)回復訳

求めなければ、受け取ることはできないのですよ。

https://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2019/08/25/030442

 

主イエスに近づく(近接する、共に歩む、求める)ことの必要性については、次回説明します。

 

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