神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

雲の中の目 〜D.Taylor集会

ディビッド テーラー氏の集会に寄せてもらいました。氏が言っていた「主の目」を、私も去年見たなぁ。そのときは、虹も出ていました。テーラー氏の写真と似ています。不思議ですね。

*去年見た雲 (あまり良く撮れてない)

I saw a cloud like that David told.

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*テーラー氏の集会から

D.Taylor and the cloud like the Lord's face.

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すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。 創世記9:13(新共同訳) 

天使が顔を出したかな 〜彩雲を見ました - 神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

ビル ジョンソン師 ~悔い改めへの助言2

「天が地に侵入するとき」よりLet me share.

エスは、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい」(マタイ福音書16:24)と言われました。多くの人々はこの召しを誤解し、イエスにあって自己否定の人生を歩みつつ、イエスの力に満ちた人生を知ることがありません。彼らにとって、十字架の歩みとは、喜びのない砕かれた状態を言い、そしてそれを十字架のしるしとして耐え忍ぶことによって、罪の性質を十字架に着けようとしています。しかし、私たちは、復活によって力づけられた生き方、最善の人生をイエスに従って生きなければなりません!

殆ど全ての宗教には、自己否定、自己卑下といった十字架の歩みの模倣が見られます。人は宗教的な修業を積んだ者を尊敬し、断食を称賛します。また、個人的な霊性のために貧困に甘んじることを良しとし、病苦を忍ぶ者を称えるのです。そんな彼らに私たちが、人生を変革する神の力を伴う喜びに満ちた人生を示せるなら、彼らはそれを賞賛するだけではなく、あなたのようになりたいと、望むでしょう。宗教には、罪と地獄に打ち勝った、甦りの人生を模倣することはできないのです。

二流の十字架を信じる人は、自分の内側ばかりを見つめたり、自ら苦難を求めたりします。

十字架は自分で適用するものではありません。イエスもご自分の手で、自らを十字架につけたのではありません。この偽りによって欺かれているクリスチャンは、常に自分の弱さについて話してばかりいます。悪魔は私たちが悪については関心がないとわかると、次に私たちが自分には価値がない、能力がないと思い込ませることに焦点を当ててきます。これは、人々がリバイバルを求めて神の前に深く打ちひしがれた様を見せる祈り会で、よく見られるものです。彼らはしばしば、真の謙遜を求めて、既に処理された古い罪の再告白をするのです。xxxxxx

もし、「私自身」がその中心となり、自分の弱さばかりを口にするなら、それは謙遜をまねたプライドに陥るでしょう。「本当に私はふさわしい者ではない・・・」というような言葉を繰り返すなら、それは神の素晴らしさの宣言に取って代わってしまうのです。自分の不義に自らを売り渡すことによって、敵は私たちを力ある奉仕から引き離すことに成功するのです。自分を内省することによって、霊的な自尊心が増し加えられるとしたら、それは、真の聖さではなく、その代わりに福音の力を表わしていく効果は、減少していくのです。

真の弱さとは、神に完全に拠り頼むことです。周りの状況に福音の力を解放していくために私たちは徹底して、神に従うより他はないのです。~以上、ビル ジョンソン師の話より。敬愛する師と同じことを言っていました。自分を見ているから、いつまでも自分を十字架に着けて...を繰り返しているのです。内省し自分に何もないと悔い改めてばかりでメソメソしている者は、まだ自分を見ているのです。父は、そんな弱い人間を良くわかって、助け主である聖霊を送ってくださったのですね。

真の弱さとは、自分を見てクヨクヨすることではなく、主の贖いを受け入れ神に完全に拠り頼み大胆に生きることですね。

「するとはわたしに言われました、「わたしの恵みは、あなたに対して十分である.わたしの力は、弱さの中で完全に現れる」。ですから、わたしはむしろ自分の弱さを、大いに喜んで誇りましょう.それはキリストの力が、わたしの上に幕屋を張るためです。」Ⅱコリント12:9

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敬愛する師23 ~悔い改めへの助言 

悔い改めても、悔い改めても古い肉が出てきて悲しむ自分。自分に何か良いものを期待するから、悔い改めるのでしょうか。悲しむのでしょうか。私は、最近も、そんなイヤな自分を見て、また悲しむのです。しかし、その悲しみとは、何なのでしょうか?わたしの罪が、今も改めようとしても出てくる罪が、十字架に架かられた主イエスの悲しみと痛みを感じさせるのです。十字架のイエスの贖いの恩寵・恵みを感じるのです。神の御前に何もない自分であることは、わかっています。しかし、それをまた再確認し、ただ主イエスの前にひざまずくだけです。自分に何か良いものがあると意識するから、悔い改めて少しでも良くなろうとするのでしょう。

結論から言うと、人間の努力からは何も改善されるべきものなどありません。人は、聖霊に満たされていなければ、肉により生きるのです。この世の人間関係やお金や生きる上でのもろもろの活動の中に、かかずりあって肉に生きるのです。ただ、聖霊により満たされて、導かれるのでなければ、的はずればかりです。聖霊により生きることが、神の国と神の義を達成できる秘訣なのでしょう。聖霊に導かれて歩んだときに、エノクのように「神とともに歩んだ…」という理由で天へ引き上げられるのでしょう。

〜敬愛する師は、以下のように言っていました~

 そのためにまず今までの考え方を捨てなければだめです。

この方はほんとに気の毒だなぁ。物質に閉じ込められて、小さな物質に閉じ込められて、なんと気の毒だろう。外側の事ばかりにかかずりあっている。しかし、なぜクリスチャンと言うならばこの見えない霊的な素晴らしい世界を、何でもそこから...神の力を信じたら、何でも与えて下さる。なぜそれを見上げないのか?

福音とは何か?「信じる者に救いを得させる神の全能の力」である。全能の力が動きさえすれば、何でもできる。「神様どうしましょう」と言ってそのエネルギーの世界でものを考えればいい。見えるところの乏しさに迷わない。仮に見えるところが砂漠であり、山の奥だったとしても、そこを天にする秘密を知っている。それがクリスチャンと言う。それがキリストの弟子だ。

そのために、まず今までの考え方を捨てなければならない。今までの考え方、今までの宗教の方程式、今まで罪が深くて、私は過去が悪いためにと言って、そんな過去までね、天国に持ち込むことは、いらんことです。ちっぽけな心で私はこんなしくじりがあった。こんな間違いがあった。こんなしくじって、もうどうしようかと言っている。神の光の射す世界に入ったら、そんなことはもう間違いでも失敗でもみんな拭って止まんようなエネルギーに満ちている。

人間の小さな間違いくらい、神の愛はこだわっていませんよ。だが、人間はこだわって神の前に出るもんだから、自分はダメだと胸を叩いているばかりだから、神様は施しようがない。そんな泣いて泣いている者に。だがそれにも気づかずに、ただ祈ってくるから、時々私はやかましく叱るんです。君は今までの状態を、まだどれだけ続けたって同じだ。そんな貧しい、そんな卑しい汚い心は捨てなさいと言っているのに。それは、人を咎めているんではない。そんな繰り返しをどれだけしたって、天には叶わないんだ。だから神の御前に出るんなら、出るように。本当に間違ったことをしたんだったら「神様ごめんなさい」と御前に出ればいいんだ。神様赦してくださるんだから。しかし、信者だから弱みを見せないと言って頑張ってる人も、これもよくない。ありのままで、なんで神の前に出ない?人を見てるからそんなことになる。神だけ見ていればそんなことにならない。見える所の現象面が何であれ、天だけを見ておったら、そんなことにはならんはずだ。天だけを見とったらどっちに転んでもいい。〜以上。1966.6.5講義より

小さな失敗をくよくよしている者に、「神の光のさす世界に入ったら、そんなことはもう間違いでも失敗でもみんなぬぐって止まんようなエネルギーに満ちている。人間の小さな間違いくらい、神の愛はこだわっていません」〜天を垣間見た師の体験から、神の愛の大きさを語っていました。最後の「天だけを見とったらどっちに転んでもいい」とは、まさにこの世の旅路を渡るための指針ですね!感謝です!

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トマスの福音書25 〜内なる光を世の光に

継続してトマスの福音書を訳し、解説しています。

25節 

Said-JS25 this: I-will-choose-you(pl), one out of-1000, and two out of-10000, > and

they-will-stand to -their-feet, they-being one alone. > Sa-id-his-disciples this: Show-us to-the-pl-ace which-you(sg)(are)there, because necessary to-us (it) is that-we-seek after-him. > Said-he to-them this: he-who-ha-s-ear of -him, l et-him- -listen; > There-is-light exists in-the-inner of-a-man-of-light and he-becomes-light to-the-world, all-of-it; if-he-not -become-light, ( a )darkness is-he.

 

25直訳

JS25 イエスはこう言った:わたしは、あなたがたを選び出す、❶1,000人の中から1人、❷10,000人の中から2人。彼らは彼らの❸足で立ち、彼らは❹ただ一つとなる。

彼の弟子たちはこう言った:あなたのいる❺そこの場所を見せてください。わたしたちにとって、❻彼を探すために必要なことです。彼は彼らに言った:耳のある者は聞くが良い、また聞かせよう。❼光は、光の人の内側に存在し、そして彼は❼世の光になる。世のすべてで。; もし彼が光にならないなら、❽暗闇が彼である。

 

ここでのキーワードは、「❶1,000人の中から1人」「❷10,000人の中から2人」「彼らは❹ただ一つとなる」「❼世の光」です。それぞれ聖句を出しましょう。

「❶1,000人の中から1人」「❷10,000人の中から2人」については、以下の聖句があります。

伝道の書7:28わたしはなおこれを求めたけれども、得なかった。わたしは千人のうちにひとりの男子を得たけれども、そのすべてのうちに、ひとりの女子をも得なかった。(口語訳)


雅歌:5:10-12わが愛する者は白く輝き、かつ赤く、万人にぬきんで、その頭は純金のように、その髪の毛はうねっていて、からすのように黒い。 その目は泉のほとりのはとのように、乳で洗われて、良く落ち着いている(口語訳)


詩篇:91:7たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。(口語訳)

 

「彼らは❹ただ一つとなる」はどうでしょう。

ヨハネ17:21父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。 

ヨハネ17:23わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。 (口語訳)

 次に「❼世の光」です。

マタイ6:22-23

目は体のともし火である。だから、あなたの目が単一であるなら、あなたの全身はに満ちる.しかし、あなたの目が悪ければ、あなたの全身は暗い。もし、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう!(回復訳)

マタイ 5:14
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
エスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

ヨハネ9:5

わたしは、この世にいる間は、世の光である。(口語訳)

 ヨハネ11:9

エスは答えられた、「一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。」(口語訳)
 
上記聖句を参考に、意訳します。

 

25意訳
JS25 イエスはこう言った「わたしは、あなたがたを選び出す、❶千人の中から一人(千人が一人になり)、❷万人の中から二人を(万人が二人になり)。彼らは彼らの❸足で立ち、彼らは❹ただ一つとなる。(父がわたしのうちにおられ、わたしが父のうちにいるように、彼らが一つとなるためである。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためである。)」

エスの弟子たちはこう言った「あなたのいる❺その場所(父のうちにいる場所)を見せてください。わたしたちにとって、❻彼(一つとなった者)を探すために必要です。」イエスは弟子たちに言った「耳のある者は聞くが良い、また聞かせよう。❼光は、光の人の内側に存在し、そして彼は世のすべてで、❼世の光になる。(父が内におられ、わたしが父のうちにいるとは、内側の光が外側の世を照らすことだ); もし彼の内側の光が暗いなら、❽暗闇が彼の外側も覆う。(彼の内なる光が輝くなら、世を照らすものである。内なる光を明るく輝かすものだ。)」

※( )内は、聖書より付け加えた説明

深いです。内なる聖霊の光を外側の世に輝かせることで、父がイエスのうちにおられ、イエスが父のうちにいるように、YHWHと一つとなるのですね。光を 山の上の町のように高く掲げ、光の中を歩むことの大切さを言っているようです。1000人に一人、10000人に二人、内なる光を輝かす者たちが、ともにひとつとなるべきです。

「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。」ヨハネ8:12
「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。」マタイ 5:14(口語訳)

※山の上の町=ツファット(Safed)。2000年前にも標高900mのツファットの灯りは、夜になればガリラヤ湖からよく見えたはずです。