天幕の聖所の特徴から、考えてみましょう。入り口から肉を焼く燔祭の祭壇(肉的な部分を焼く十字架の献身)、祭司が手足を浄める洗盤(日々の悔い改め)、メノラー(教会)とパン(みことば・説教)の祭壇、常供の香の移動式祭壇(香り高い賛美と感謝の祈り・主の祈りを一日中、どこに行くにも捧げる)、へだての幕(イエスの十字架で、すでに縦に裂けたので至聖所へ入れる)、至聖所には、契約の箱(マナの壺、アロンの杖、十戒の石板が入った天につながる聖櫃)それを12部族が囲んで生活するのです。聖所とその12の部族の間を主が臨在するのです。祭事に当たるレビ人の子ゲルション、ケハト、メラリとアロンの子孫も聖所を囲みました。
しかし、旧約の幕屋は予象です。
ヘブル書9章には、以下のようにあります。
「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。
これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、❶それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。
しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この❷造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、❸ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」ヘブル9:7-15
※旧約の幕屋は、❶礼拝する者の良心を完全にはできません。新約のキリストは、❷造られた物ではなく完全な幕屋を通り、❸ご自分の血によってまことの聖所で、永遠の贖いを成し遂げたのです。
ヘブル9:23-25には
「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
キリストは、本物の❹模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。」 へブル9:23-25
へブル10:15-19には
聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。
「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、❺わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。
こういうわけですから、兄弟たち。❻私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。 」ヘブル10:15-19
※ヘブル人への手紙には、❹旧約の幕屋は、模型であり、キリストこそ大祭司であり、自分自身を罪のためのいけにえとして、自らの血をも注ぎ出し、天の至聖所において完全なる贖いのわざを完成された方であると強調しています。
※その救いは、❺律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつけるもの。決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしないと言われる。
そして、何という恩寵か、❻私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。❹模型ではない、手で作られたものではなく、天そのものにはいるのです!