祈りの中で、イエスの友となることについて示された。
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも❶互に愛し合いなさい。
人がその❷友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたに❸わたしが命じることを行うならば、あなたがたは❹わたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの❺父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」 ヨハネ15:12ー15
イエスは、ヨハネ伝15章で❸わたしの命じることを行えば、イエスの❹友となるとおっしゃっている。その命じることとは「❶互いに愛し合う」ということです。その愛の基準として「❷友のために自分の命を捨てる」ことを語っている。そのような友となれば、もはやしもべではなく、罪に対するさばきの主従関係もない。それは友人関係のように、友情や愛が、咎や罪を赦す関係です。
そして主の祈りの「われらに罪をおかす者をわれらは赦します」のように、われわれ人間関係だけではなく、主も我らの罪を赦してくださるのです。
大好きなエレミヤ書31章から、
「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。-主の御告げーわたしは❻彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」 エレミヤ31:33ー 34
主は、エレミヤ書のように、❻彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないと言ってくださる。今も罪から離れていないなら、悔い改めも必要でしょう。しかし、主は、もう過去の罪は❻二度と思い出さないとおっしゃっているのだから、いつまでも昔のことを引きずって悔い改めばかりして卑屈になるのは、不信仰なのです。主イエスの友として、親友として、互いに❷いのちをかけるまでの友情で愛することで、罪咎は思い出されなくなります。すでに主は十字架でその愛を示されました。そして助け主なる聖霊まで送り、愛を示しています。それに応える愛があれば、第1の戒めも第2の戒めもクリアできるのです。
また、主イエスの友には、しもべとは違い❺父から聞いたことをみな、知らせたと言っています。友には、主イエスを通して父からのみ言葉と啓示が与えられるのです。何という恩寵でしょう。