敬愛する師は、1961年1月吉野山竹林院で新年聖会をされました。
仕事で近くに来たので、竹林院に寄りました。台風による崩落で昨日まで通行止めだった山道を抜けると、古い山門が吉野山の尾根にあります。寺の宿坊として、250年の歴史のある大きな宿です。1961年当時のことを女将に聞きましたが、そんな前のことは...とわからないようです。
ここで敬愛する師は、熱弁に声を嗄らして「積極的信仰生活について」語られたそうです。
50年以上前に、すでに師が「積極的信仰生活」を語っていたとすると、とんでもなく先進的な講義だったなぁと感服します。道中、その講義の録音を聴きながら、当時の師の熱い情動を感じました。〜以下講義より〜
「キリストの霊が満ち満ちている。恵みに恵みを加えながら、これを日々味わいながら生きるのを信仰生活という。....霊的信仰者の特徴は、満ち満ちている中に生きるということである。財産が欠乏し、ガツガツして、カサカサして、心が乏しいならば、それは霊的信仰者、キリストの民の特徴ではない。キリストの民の特徴は、豊かなるものである。エペソ書をお読みになれば、お分かりになる。エクレシアというものは、満ち満ちている者たちがおるところである。そういう教会を作らなければ、看板が教会でも教会でない。キリストのからだと言いながら、それは死んだからだである。キリストのからだと言いながら、聖霊の貧血を起こした教会で良いだろうか。聖霊の蒸発したような無教会主義がなんになるだろうか。もう一度、神のキリストの満ち満てるものの中で生きるようなエクレシア作りをしたいのであります。このエクレシアは、超教派的なものでありまして、幕屋と言っても、堕落しましたら、もうエクレシアではございません。
とにかく、今年は、満ち満ちて恵みに恵みを増し加えられる信仰生活を送ろうではありませんか。」〜師の講義抜粋
師は、他宗教の最も暗い所へ光を投ずるがために、神社仏閣を聖会の会場に使いました。その宣教姿勢は、ぜひ見習うべきところです。キリストはシーク教徒のサンダーシングにも、仏教徒にも、イスラム教徒にも現れ回心を導きたもうた。この世の常識に縛られているようじゃキリストの信仰は理解できません。天の常識で実行することですね。