神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

イエスが二度語った聖句 〜レーマを読み解く24

マタイ伝には、主イエスが二度繰り返して語った不思議な聖句があります。

❶自分の魂の命を見いだす者はそれを失い、わたしのために❷自分の魂の命を失う者はそれを見いだす。マタイ伝10:39(回復訳)

〜❶魂の命を救おうとする者はそれを失い、わたし(イエス)のために❷自分の魂の命を失う者はそれを見いだす〜一体なぜ、一番大切な自分の魂の命を救おうとすると失い(破壊し)、自分の魂の命をキリストのために失う(破壊する)なら救われるのでしょうか。考えてみましょう。

 

マタイ伝10章 

10:37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない.わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない.

〜何という高いハードルでしょうか。アブラハムが息子イサクを捧げようとしたのと同じ神への従順。それを愛の故に行うことが自分には可能でしょうか。

10:38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしくない。

〜フットノート抜粋

キリストは父のみこころを選び、十字架につけられました(26:39、42)。彼はご自身の十字架を負って、神のみこころを行なわれました。彼に召された者たちは、彼と同一化されました。主は彼らに自分の十字架を取って、彼について来るように、すなわち、自分を捨てることによって、神のみこころを取ることを求められました。これは、どんな代価を払ってでも、彼らの愛をまず主にささげることを要求しました。それは、彼らが主にふさわしい者となるためでした。
10:39❶自分の魂の命を見いだす者はそれを失い、わたしのために❷自分の魂の命を失う者はそれを見いだす。(回復訳)

〜フットノートより
魂の命を見いだすとは、魂に享受を持たせ、苦しみを逃れることです。魂の命を失うとは、魂に享受を失わせ、それによって苦しむことです。もし天の王に従う者たちがこの時代に、彼らの魂に享受を持たせるなら、来たるべき王国時代に、魂に享受の損失を被らせることになります。彼らが王のために、この時代に魂の享受の損失を被らせるなら、来たるべき王国時代に、魂に享受を得るでしょう。すなわち、地を支配することで、王の喜びにあずかるでしょう(25:21、23)。

 

マタイ伝16章 の同じ聖句

16:23イエスは振り返ってペテロに言われた、「サタンよ、わたしから退け! あなたはわたしをつまずかせるものである.あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

16:24それから、イエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を否み、自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい。

16:25❶自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのために❷自分の魂の命を失う者はそれを見いだす。

〜フットノートより
23節から25節(23―25節)で、三つの事が互いに関係し合っています。それは、「思い」、「自分」、「魂の命」です。思いは自己の表現であり、自己は魂の命の化身です。魂の命は自己の中に化身し、自己によって生かし出されます。わたしたちの自己は、思い、思想、観念、意見を通して表現されます。思いを神の事柄にではなく、人の事柄に付ける時、わたしたちの思いは自ら行動し、それ自身を表現する機会を得ます。これが、ペテロに起こったことでした。ですから、続く主の言葉は、ペテロが「自分」を否まなければならない、自分の魂の命を救うのではなく、それを失わなければならないと言われたのです。魂の命を失うことは、自己を否むことの実際です。これが十字架を負うことです。〜つまり、人間的な自分の思いを優先するのではなく、十字架刑の道へ向かうとも、神の事柄を思え!これこそ十字架を負うことだということでしょう。

 

ピリピ2章に詳しい説明があります。


ピリピ  2章

2:1こういうわけで、もしキリストにあっていくらかでも励まし、もしいくらかでも愛の慰め、もしいくらかでも霊の交わり、もしいくらかでも情け深さと同情があるなら、
2:2どうかあなたがたは同じ事を思い、同じ愛を持ち、魂において結合され、一つの事を思って、わたしの喜びが満ちるようにしてください.
2:3何事も、自分本位の野心から、また虚栄からするのではなく、むしろ謙虚な思いで、互いに他の人を自分自身よりすぐれていると思いなさい.
2:4おのおの自分自身の長所だけでなく、他の人たちの長所にも目をとめなさい。

2:5キリスト・イエスの中にあったこの思いを、あなたがたの内側でも思いとしなさい.

2:6この方は、神の形の中に存在されますが、神と等しくあるのを固守すべき尊いこととは見なさず、
2:7かえってご自身をむなしくし、奴隷の形を取り、人の姿になられて、
2:8人としての有り様で見いだされ、ご自身を低くして、死にまでも、しかも十字架の死に至るまでも従順になられました。
2:9それゆえに、神もまた、彼を高く引き上げ、そして、あらゆる名にまさる名を彼に与えられました.
2:10それは、天にあるもの、地上にあるもの、地下にあるものが、イエスの御名の中で、すべてひざをかがめるためであり、
2:11そしてあらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と公に言い表し、父なる神の栄光となるためです。(回復訳)

2:5フットノートより
文字どおりには、これをあなたがたの中で思いなさい。「この」は、3節(3節)の思うことと4節(4節)の目をとめることを示します。このような考え、このような思いは、キリストがご自身をむなしくし、奴隷の形を取り、ご自身を低くして、人としての有り様で見いだされた(7―8節)時に、キリストの中にもありました。そのような思いを持つために、わたしたちは、キリストの心の中で彼と一つである必要があります(1:8)。キリストを経験するために、わたしたちはそのような程度にまで、すなわち彼の優しい心の感覚と思いの中で、彼と一つである必要があります。

〜2章5節が鍵になるのでしょうか。
キリスト・イエスの中にあったこの思いを、あなたがたの内側でも思いとしなさい.

そして、ずっと気になっているマタイ7章の聖句が示されるのです。

7:13あなたがたは狭い門から入りなさい.崩壊に至る門は広く、その道は幅広い.そして、そこから入って行く者が多い。

7:14命に至る門は狭く、その道は細いので、それを見いだす者は少ない。(回復訳)

フットノート
門が狭くその道が細いのは、王国の新しい律法が旧契約の律法より厳格であり、王国の要求が旧契約の要求より高いからです。それは外側の行動だけでなく、内側の動機までも取り扱います。古い人、自己、肉、人の観念、この世とその栄華はすべて排除され、神のみこころに合うものだけ、入ることができます。王国の民は、まずそのような狭い門から入り、次にそのような細い道を歩む必要があります。まず道を歩いて、それから門に入るのではありません。門に入ることは、その道を歩み始めることにすぎません。その道は生涯のものです。

誰がこの狭き門を見出し、そこから入るのでしょうか?自分の魂の命を大切にする者は入れないのでしょうか?

マタイ10:39❶自分の魂の命(崩壊に至る広い門)を見いだす者はそれを失い、わたし(イエス=門)のために❷自分の魂の命を失う者はそれを見いだす。(回復訳)

ヨハネ10:9わたしは門である.だれでも❸わたしを通って入る者は救われ、また入ったり出たりして、牧場を見いだす。(回復訳)

王国の新しい律法が旧契約の律法より厳格であり、王国の要求が旧契約の要求より高いなら、誰が救われるのでしょうか?

マタイ19章で弟子たちが同じ質問をしていました。

 

19:24わたしはまたあなたがたに言う.富んでいる者が神の王国に入るよりは、らくだが針の穴を通り抜けるほうがまだ易しい」。
19:25弟子たちはこれを聞くと、非常に驚いて言った、「それでは、だれが救われることができるのでしょう?」

〜この質問への主イエスの答えは、次の通りです。 
19:26イエスは彼らを見つめて言われた、「❸人にはできないが、神にはすべての事ができる」。(回復訳)

〜フットノートより
わたしたち人の命によって、天の王国に入ることは不可能です。しかし、神の神聖な命によれば、それは可能です。その命は、わたしたちの中に分け与えられたキリストご自身であって、わたしたちが王国の生活を生きることができるようにします。キリスト、わたしたちを力づけて、いっさいの事柄を行なうことができるようにしてくださる方(ピリピ4:13)によって、わたしたちは王国の要求を満たすことができるのです。

〜つまり、❸人にはできないのです。しかし、神には狭き門を通れます。神にはすべてのことができるのです。❷自分の魂の命を失う者とは、自分の思い、思想、観念、意見でなく、神の事柄を思い、キリストが、ご自身をむなしくし、奴隷の形を取り、ご自身を低くして、死にまでも、しかも十字架の死に至るまでも従順になられたように、神の思念の中に生きることなのでしょう。キリスト・イエスの中にあったこの思いを、あなたがたの内側でも思いとしなさいとは、神の思念を身につけて生きることなのですね。それは、人間のことを考えたペテロがサタン呼ばわりされ叱責されたことを見ると、反対に神の思いは、神から来ると考えられます。それは、聖霊による思念なのでしょう。

ヨハネ伝 14:26

しかし慰め主、すなわち、父がわたしの名の中で遣わされる聖霊は、あなたがたにすべての事を教え、またわたしがあなたがたに言ったすべての事を思い起こさせてくださる。(回復訳)

 

以前の記事には、もう少し深いところが記してあります。

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2017/04/30/000249