栄化への実践で、2つの大切な戒めを具体的に実践することを示してきました。
栄化へ向けて、1:天の御座の主イエスを見つめ続けるひとつの目を開くことで、聖なる御父と麗しい主イエスを愛することができます。また、2:隣人のために肉体を十字架につける(隣人のために肉体を酷使する)ことは、隣人への愛を増します。実際これが、最高の喜びなんです。この2つの愛のクロスで、神様が顕現することについてお話ししました。
御神の栄光を反映する生活は、実に楽しい喜びに満ちたものです。ヨハネ伝で主イエスは、そのことを語っておられます。
ヨハネ伝15:7-11
7あなたがたがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたがたの中に住んでいるなら、何でも望むものを求めなさい.そうすれば、それはあなたがたにかなえられる。
8あなたがたが多くの実を結ぶことで、わたしの父は栄光を受けられ、こうしてあなたがたはわたしの弟子となる。
9❶父がわたしを愛されたように、❷わたしもあなたがたを愛した.❸わたしの愛の中に住んでいなさい。
10あなたがたが❹わたしの戒めを守るなら、わたしの愛の中に住むであろう.それは、わたしが❺父の命令を守って、彼の愛の中に住んでいるのと同じである。
11これらの事をあなたがたに語ったのは、❻わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。(回復訳)
9節では、「❶父がわたしを愛されたように(=父から子への縦の愛)❷わたしもあなたがたを愛した(=イエスが隣人を愛する横の愛).❸わたしの愛の中に住んでいなさい」と2つの愛を語っておられます。
また、10節では、「あなたがたが❹わたしの戒めἐντολὰς(複数)を守るなら、わたしの愛の中に住むであろう」と、複数形で戒めを語っています。もう、何の戒めかわかりますよね。
律法と預言者がかかっている大切な戒めです。❹わたしの戒めとは、=『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二はこれである、『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。これらよりも大いなる戒めはない」。マルコ12:30.31
10節の「それは、わたしが❺父の命令(戒め)ἐντολὰςを守って、彼の愛の中に住んでいるのと同じである」❺は❹と同じἐντολὰς戒めの複数形であり、神への愛と隣人への愛を指します。
ここからが大切です。
11節、「これらの事をあなたがたに語ったのは、❻わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」と言っています。
律法と預言者がかかっている大切な戒めとされる1『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。2『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。この2つの戒めは、重く辛い陰鬱な石の戒めではありません。❻わたし(イエス)の喜びがわたしたちの中にあり、わたしたちの喜びが満ちあふれるためのものなのです。これは、世人にはわからない天国の喜びです。
十字架上で主イエスが示した愛。その愛と合一する実践は、無上の喜びを頂くことなのです。十字架を負うとは、重く辛い陰鬱なことではなく、心に無上の喜びを頂くことなのです。
勘違いしている世人が多いのです。自分の十字架を負うとは、キリストとともに天国の栄光と喜びが満ち溢れる体験です!
もう、この世の価値観とは違うんですよ!
世人は単一の目が開かれないから、これがわからない。「あなたの目が悪ければ、あなたの全身は暗い。もし、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう!」マタイ6:23。「だから、あなたの内にある光が、暗やみにならないように用心しなさい。」ルカ11:35とキリストは警告したもうのです!
実際にもっとわかりやすい証詞を紹介します。愛の実践の喜びについて、熊本へ無償の癒し旅をした際の横塚修身先生の言葉を再度シェアさせてください。
「私たちは、私たち自身が喜びを頂けるから熊本へ行くのです。
少なくとも私はそうですが、他のスタッフの皆さんも思いは同じだと思います。
何日も仕事を休んで自分のことを後回しにして、しかも自費です。
この世的に見ると一見ばかげたことに見えるかも知れません。
一見、損することばかりしているかの様です。
でもね、そうじゃないの。
とてつもない喜びを頂けるのです。
これは理屈では分からない。
実際にやってみないと分からない。
その喜びがどんなものかは・・・・。
この世的には、
お金がたんまりとあると嬉しい。
好きな人と一緒にいると楽しい。
家庭が円満だと幸せ。
美味しいものを沢山頂けると嬉しい。
趣味も楽しい。
この世的には数え上げるときりがない程、楽しい嬉しい喜ばしいことはあるものです。
でもね、この喜びはすべて「この世的なもの」なんです。
「あの世的」なものではないのですね。
あの世とは天上界、天国のこと。
天国に住む天使たちの喜びは、常に人々の幸せだけを願って日々活動しておられるそうです。
「無償の愛の実践」をしてくれる人を探しておられるそうです
無償の愛の実践をされている方を見つけ出すと、天使たちは共に活動する事を歓喜するそうです。
それと同時に惜しみない応援をして下さるそうです。
私たちが密かに望んでいるものはすべて与えて下さるそうです。
半面、この世的なことに奮闘努力して、努力して努力して得難いものを得ようとするのはそれはそれでいいのですが、一度それを後回しにして愛の実践をしてごらん。
望むすべてのものが労せずして与えられるから・・・・・。
これホントの話です。
でもね、本当はこのことを言ってはならないのです。
言うと、ご褒美を目的にする人が居かねないからです。
これは本末顛倒ですね。
しかし、仮に本末顛倒でもいいのです。
ご褒美を目的にしたって与えられますのでご懸念なく・・・・・。
私の場合は理屈ではなく、与えられるからでも自分の心が喜びを頂けるからでもなく、ただ「それをしたいからやっている」だけなんです。
その結果、すべてのものが与えられているのです。
知らず知らずの内に引き寄せているのです。
この無償の愛の実践を命がけでされたのが長尾弘先生です。
先生はこう言われました。
「愛の実践をすることで肉体を酷使すると、心に無上の喜びを頂けます。心が喜んでくれるのです」と・・・・。
「極限まで肉体を酷使して愛の実践をすると、心の奥底から神がお出ましになられる」とも言われました。
「無償の愛の実践をすると、心のフィルターにたまっているゴミやスモッグが自然に払われてクリーンになり、本当の神さまがお出ましになるのです」とのことです。
求めても得れないものが、愛の実践をすることで得られるとすると、神社仏閣に行って神頼み仏頼みをする必要はないし、ましてやパワースポットに行く必要などさらさらにないですね。
神は私たちの心の奥底に鎮座ましましているそうです
パワースポットは私たちの心の中にあるのです。
神さまが出てこられるのならどんなことでも瞬時に叶う訳ですね。
だから行こう、熊本へ、って訳ではないですよ。
繰り返し言いますが、心が喜ぶのです。
天上界の仲間たちと心を共有して一つになれるのです。
長尾先生は言われました。
「愛の実践をすればする程、天国の蔵に宝を蓄えられます」
愛の実践は心の泉に愛を満々と蓄えます。その愛こそが優しさです。心の泉に愛が蓄えられたら、それを汲みだして他の方に差し出すのです。
蓄えられたら汲みだす、又与えられたら汲みだすという循環の中に生きると無上の幸せが得られることでしょう。
「この地上界にいる人のすべての方に幸せになって頂きたい、健康であって頂きたい」
それが長尾先生の願いであったし、師を慕う私の目標でもあります。
その目標を達成する為の小さな歩みが熊本なんです。
熊本での活動を耳にされた方からよく言われます「素晴らしい活動ですね」とか「偉いですね」とか・・・・・。
そうじゃないんです。
だってねボランティアではなく、私たち自身が喜びを頂けるからで自分の為なんです。だから偉くもなんともない。
最後にまた長尾先生のお言葉を引用します。
「人様に喜んで頂くことをすると、相手の方の心は喜びに満たされます。この喜びはそのまま私の喜びとなるのです。
人の喜びを我が心の喜びとする。
座右の銘です。」~以上 横塚先生。
この方たちは、宗教とは関係のない立場で、種々の宗教は尊崇しています。その個人的教義や信仰はどうあれ、実際に、神の戒めを潔く実行しているため、聖書の奇跡がついてくるのです。よく理解できるので、再掲させて頂きました。ありがとうございます。
ヨハネ伝15:7-11は、とても大切な聖句だとわかります。この聖句を体現できるような実践を日々行うことで、❻主イエスの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるのです。主イエスの言葉は、体験すべき現実です。実体験、実践の中で体験するものだと思います。
これは、まだ栄化への基本的な段階かもしれません。まだ、やっと自分の十字架を負ったところですから。しかし、この十字架(くびき)は軽く、キリストと並んでくびきを負うという絶大な喜びが伴うものだと感じます。マタイ11:29-30
あー主さま、あなたは真実です!あなたの愛の中で生きるとは、なんと幸いなことでしょう!ハレルヤ!
http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2019/04/19/002806
2019.4.28撮影