神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

トマスの福音書22 〜天国の力はからし種

継続してトマスの福音書を訳し、解説しています。

22節

 Said-the-disciples to - J S 2 2 this: Speak to-us this- the-kingdom-of(the)heaven(s), she-compares to-whom? > Said-he to -them this: she-com-pares to-a-grain of-mustard > small, more--than-the-seeds, all of them; > when, hwvr, she-should--fall onto-the-earth which-they-did-work on-him, does-he-send out a-great branch (  )-comes-to-be shelter (for) the-birds of-the-sky. >

直訳

22

弟子たちはイエスにこう言った、「天の王国は、何に比べられますか?彼は、彼らにこう言った、それはからし種に比べられる。すべての種子よりも小さいが、しかしながら、それが耕した地上に落ちれば、大きな枝を張り、( 原文欠落 ) 空の鳥の隠れ家となる。」 

この箇所は、マタイ伝13章にも同じ記事があり、誰もが知っている天国の譬え話でしょう。

マタイ13:31-32からし種の譬え

エスは別のたとえを彼らの前に置いて言われた、「天の王国は、一粒の1からし種のようなものである.人がそれを取って、自分の畑にまいた.それはどの種よりも小さいが、生長すると、野菜よりも大きくなり、木となって、空の鳥が来てその枝に宿るほどになる」。(回復訳) ほぼトマス22節と同じですね。

「からし種の譬え」は「種まきの譬え」のあとの3つの譬え話のひとつで語られています。「種まきの譬え」では、イエスが解き明かしており、❶種はみ言葉で鳥は邪悪な者であると言っています。13章では、そのあとで3つの譬えが以下のように続きます。Ⅰ「❷良い麦と毒麦の種まき」の譬え、Ⅱ「からし種」の譬え、Ⅲ「3サトンの粉と❸パン種」の譬えです。そのあとで、「良い麦の❹種を蒔く者=人の子」、「❷良い麦の種=王国の子たち」、「❺毒麦=悪しき者の子たち」であると解き明かしています。❺毒麦や❸パン種については、福音書では決して良いものではありませんが、からし種の譬えも最後に❻空の鳥が巣を作る(鳥の隠れ家となる)と言っています。「種まきの譬え」では、「鳥=邪悪な者」と解いていますので、これも良いイメージがありません。

また、マタイ17:19 には、からし種について次のようにあります。

そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、❼からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」

以上を考えると、種には3つの意味が考えられます。「種=❶み言葉、❷王国の子たち、❼信仰」という意味が含まれるようです。

1)からし種を❶の「み言葉」として見てみましょう。

「一番小さい種子=この世的には,実現が難しいと思われる❶み言葉」なのでしょうか。「そのみ言葉を信じ、良い地の心ではぐくみ生長させると、大きな枝をはり、❻空の鳥(邪悪な者)が木陰に巣(隠れ家)を作るまでになります。」~少々違和感があります。❻鳥は、種まきの譬えでは、邪悪な者を指すと説明しています。み言葉が良い心で大きく育つ、すると邪悪な者の隠れ家となる、のでは困りますね。

2)❷「王国の子たち」として考えると、

「それはからし種に比べられる。すべての種子よりも小さい者たちですが、しかしながら、その❷王国の子たちが耕された地に落ちて死ねば、大きな枝のような教会となり、その教会に空の鳥(邪悪な者)が来て隠れ家とする。」~この解釈から、王国の子たちの殉教で、ローマカトリックができ、大きな教会となり、そこに邪悪な者もやって来て隠れ住むと解釈する者もあります。予言的な内容です。

 3)❼「信仰」に置き換えるとどうでしょう。

「それはからし種に比べられる。すべての種子よりも小さいような信仰ですが、しかしながら、それが耕した良い心に落ち信仰が育てば、大きな枝を張るようになり、空の鳥(邪悪な者)の隠れ家にもなる。」 つまり、小さな信仰が大きな枝をはる木のように育ち、邪悪な者ですら信仰力の恩恵に与り、巣を作るほどになる。~これも可能でしょうか。

 からし種ほどの信仰があったら、山が動く=この世界では、実現が難しいと思われることができる  ということです。からし種ほどの信仰とは=種子であるみ言葉を信じ、耕された心に留め、そのみ言葉が真実であると信じ生長させれば、「どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」と言う解釈です。それは思ったことがすべて実現する「天国」の環境と同じ状態です。しかし、その信仰力は、王国の子だけではなく、邪悪な者も使えます。信仰があれば何でもできるのですから。空の鳥(邪悪な者)もそれを利用して不思議な業をします。

この譬え話は天の王国の説明なのですが、天の王国の力についての説明なのかもしれません。「なぜなら、神の王国は言にあるのではなく、力にあるからです。」Ⅰコリント4:20

についての箇所があります。

「わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできない。」(ヨハネ15:4)、「あなたがたがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたがたの中に住んでいるなら、何でも望むものを求めなさい.そうすれば、それはあなたがたにかなえられる。」(ヨハネ15:7)とあります。われわれが主イエスに枝を繋げていれば、つまり、み言葉が心に住み、イエスの信仰力の中に住むなら、「何でも望むものを求めなさい!」と言っています。「それは成就する!」もし、このことばが体験できないなら、信仰の不足を悔い改め、幼子のような良い地の心で、主イエスとの枝繋がり=ネットワークを求めていかなくてはなりません。

意訳します。

22

弟子たちはイエスにこう言った、「天の王国は、何に比べられますか?彼(イエス)は、彼らにこう言った、それはからし種ほどの信仰に比べられる。すべての種子よりも小さいが、信じて耕された良い心で受け入れるなら、成長して大きな枝(イエスとのネットワーク=教会)を張り、( 原文欠落 ) 空の鳥のような邪悪な者でさえやって来て枝の下に隠れ家をつくり、信仰力の恩恵にあずかる。」

※成長したからし種

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圧倒的な愛に涙が止まらない ~もう一つの群れの情動

今日の講演は、驚くべきものでした。もう一つの群れに、こんな方がおられるとは。ハワイ モロカイ島のダミエン神父のようにはいきませんが、ハンセン氏病に真正面から取り組む日本人が今もいるとは思いませんでした。写真とともにそのボランティアの働きを紹介してくれました。涙が出ました。

イザヤ書58章のように、主の栄光が後ろからついてくるのです。

「わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。

また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。

そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。」イザヤ58:6-8(口語訳) 

かつて、敬愛する師は、身体が溶け出し、膿の匂いのするハンセン氏病患者の施設へ通い、福音を伝えました。師は、顔の溶け崩れた患者を抱擁し、顔と顔をつけるくらいに彼らを愛したのです。一般人は感染を恐れ、施設に近寄ることもしなかった当時、師は、そんな恐れを持っていなかったと証詞から聞いています。

これは、宗教ではないのです。これは、キリスト教でも仏教でもない。天国人の愛の情動による自然な行為なのです。そして、今日講演をお聞きした方も同じです。目の前にいる手足も溶け落ち「殺してください」と言う患者を放っておけずに、愛のゆえに、何とかしようと手を伸べるのです。愛の情動に、いてもたってもいられず何とか救おうとするのです。そこに道徳や戒律はありません。心に刻まれた愛があるのです。涙が出ます。これは、宗教や信仰ではないのです。「あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる」のです。愛の献身は、それくらい尊いものなのですね。そんな方々が、実際にこの世界にはいます。

主イエスの話したことは、この世的には理解しづらい、まるで向こうの世界の内容です。しかし、天国人に会うと、この内容が真実であり、宗教や信仰のたぐいではないことがわかります。この宇宙を越えた高次元の文明を持つ「神の文明」の真実を語っているだけなのです。この高次の文明で生きるためには、その住人たちと同じような霊性、魂、心、人格が必要です。特に、無意識の中で愛の情動により動く人が、そこで暮らす資格を持ちます。知識や訓練や修養や信仰心ではない。天国人に触れ、天国人になることです。天国人に出会うと、自然と涙が出てくるのです。不思議です。御国の霊に触れることで、人はコンバージョンします。

「またわたしには、この囲いのものではない◉他の羊もいる.わたしは彼らをも導かなければならない.彼らはわたしの声を聞く.こうして一つの群れ、一人の牧者となる。」ヨハネ10:16(回復訳)   ◉は、異邦人を指すと言われます。

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ミャンマーでの取り組み 認定NPO法人 アジアチャイルドサポート

 

4500年前の涙  ~人の心は同じ  2015,11,22FBより再掲

昨日、妻と六本木の大ピラミッド展へ行った。たくさんある展示品はどれも当時のエジプト人の生活を物語ってくるようだった。その中で驚いたのが、今から4500年前の古王国時代の神官カイの座像である。
 この座像は、1999年にザヒ・ハワス博士によって、ギザの西部墓地の神官カイの墓の偽扉の裏側から発見された。カイは、背もたれのある椅子に腰掛け、右腕を曲げて、布を掴んだ右手を胸の前に当て、左手を左膝に置いた姿で表されている。頭には肩まで届く鬘を被り、浮彫で表された眉毛と銅の枠で囲まれた水晶の目をもっている。
 右足元に裸の姿の幼い息子が左手をまわし、指をくわえている。左足元には白い衣装を身につけた小さい娘が斜め座りで右手をまわしている。当時の座像は家族の記念写真のようなもので、夫婦の座像が多い。その中で、彼の座像には妻がいない。早く先だったのだろう。
 カイは、水晶でうるんだような悲しい眼をし、その口元は悲しみをこらえているようだ。しかしその眼は遠く天を見つめている。クフ王の死後の祭祀に関わる重要な神官であったカイ。しかしその座像には幼い子らと悲しげなカイだけがいるのだ。BC2000年のアブラハムよりも古いBC2500年の人物である。そんな彼の顔を見つめ、私は往時をしのび涙が出てきた。人の心は4500年前も今も同じだ。何も変わっていない。

YHWHは、このような人々に心を向けてこられた。

そして、2000年前、主の救いがこの世に提示された。

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※この像は、当時の家族の集合写真のようなものです。小さな子供2人と父親しかいません。4500年前の彼のために涙が出るのはなぜでしょう。

昨日見たシェキナー 〜神のご栄光は西へ向かう

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エゼキエル書1章 28節
周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。(新共同訳)

昨日は、礼拝後、仕事で横浜へ。夕方ファィヤーカンファレンスに遅れて行こうとしましたが、西にご栄光(シェキナーグローリ)を見て、東へ行かないでも良いと示されました。

後で動画で見させてもらいました。

www.youtube.com

https://youtu.be/IrPOqEqBYl4

動画(2:44:00ころ)を見る限り、雄叫びの祈りは、不完全燃焼です。トッド師が満足できないのが、よくわかります。絶叫の祈りは、こんなものではありません。多くの会衆・教役者は、祈り方がわかってないようです。殻が破れるまで祈るべきです。日本の教会に力が十分現れない理由が見えます。

マイクの声が聞こえなくなるほどの声が、異言による一同の雄叫びの祈りです。御霊が降りあまりのペンテコステ状態に、敬愛する師は、雄叫びも良いが、静かに祈りましょうと度々勧めるくらいでした。いつも雄叫びをせずとも、時々は祈祷会でペンテコステ状態を体験した方が良いと感じます。

日本の教会では、今まで見たことがないのですから、仕方ないかも知れませんが、雄叫びの祈りが理解されず、実践できないことが問題だとも思いました。ペンテコステ状態までは、まだまだまだと思いました。まず、救霊や聖霊を求める祈りは、われわれが、ブレークスルーすることが鍵だと思いますが、いかがでしょう。

日本人はまわりを気にし、尊厳や礼儀、モラルが邪魔をしています。一番大切なのは、主への渇きに殻を破ることなのですね。トッド師は、よく忍耐されています。

愛すべき方たちです。CfaNの活動は、大きな実を結ぶはずだと感じました。癒された方も多いようです。世界的な宣教の秘訣が見とれました。貴い救霊の働きを感謝します。 

ローマ10:14

「それでは、信じたことのないを、どのように呼び求めるのでしょうか? 聞いたことのないを、どのように信じるのでしょうか? を宣べ伝える者がいなくては、どのように聞くのでしょうか?」(回復訳)

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http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2017/01/02/211635