神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

❤️栄化への実践10 〜完全な者とは

山上の垂訓と言われるマタイ伝5章には、「完全でありなさい」と主イエスが言う場面があります。

マタイ伝5章

5:43『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われたことを、あなたがたは聞いている。
5:44しかし、わたしはあなたがたに言う.❶あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい
5:45それは、あなたがたが、❷天におられるあなたがたの父の子となるためである.なぜなら父は、悪しき者にも善なる者にも彼の太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださるからである。
5:46あなたがたは、 自分を愛する者を愛したからといって、どんな褒賞を受けるのだろうか? 取税人でさえ、同じことをしているではないか?
5:47あなたがたは、自分の兄弟にだけあいさつしても、何かさらにすぐれた事をしているのだろうか? 異邦人でさえ、同じことをしているではないか?
5:48だから、あなたがたの❸天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい。(回復訳)

いやあ、「❶あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」なんて、できるわけがないだろう〜そう思うあなたは、正直で誠実な人でしょう。❶敵を愛すなんて、だれもできはしませんし、迫害する者のために祈るなんて、無理やりならできるかもしれませんが、心からなんて人にはできないでしょう。

しかし、❷天におられるあなたがたの父の子となるためには、父と同じように、悪しき者にも善なる者にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせ恵む者になれ、❸天の父が完全であられるように、あなたがたも完全であれ〜と主は言われるのです。

天の高い標準です。

では、どうすれば❶敵を愛し、迫害する者のために祈れるのでしょう。

実は、創世記でアブラハムも同じことを求められています。

  「 完全であれ」とは、創世記17章で99歳のアブラハムに語られた聖言です。

創世記17章

17:1さて、アブラムが九十九歳の時、エホバはアブラムに現れて言われた、「わたしは❹すべてに十分な神である. ❺ わたしの前に歩み、❻完全でありなさい。」(回復訳)

他の日本語訳聖書では、わからないのですが、回復訳では、「❹すべてに十分な神」はאֵ֣ל שַׁדַּ֔י  エル シャダイ であり、אֵ֣ל は「大能の方」を意味し、שַׁדַּ֔יは「胸・乳房」を意味するとあります。また、「❺ わたしの前に歩む」とは、「彼の臨在の中で歩み、絶えず彼と彼のすべてに十分な供給を享受することです。完全であるとは、神を私たちに、完全の要素また要因として加えることです。実際的に、それは、わたしたちの命と働きのために、肉の力により頼むのではなく、すべてに十分な大能の方としての神に信頼することを意味する」〜と言っています。和訳が、難しいですね。

また、❻תמיםは「完全な」と訳されていますが、❻には「innocent  無邪気な・罪のない」という意味もあります。

要するに、神の臨在の中で、神の供給する豊かさを享受し、大能の神に信頼して生きることです。それは、幼子が母の胸に抱かれて、安心しきっているように、主イエスの完成されたピスティス(信仰の確立)の上に乗っかって無邪気な罪のない赤子のように生きることです。

マタイ伝18章で、主イエスは、幼子について話しています。

マタイ伝18章

18:2そこで、イエスは一人の小さい子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて
18:3言われた、「まことに、わたしはあなたがたに言う.あなたがたが転機して小さい子供のようにならなければ、決して天の王国に入ることはない。
18:4だから、この小さい子供のようにへりくだる者が、天の王国で一番偉いのである。(回復訳)

    この箇所について、サンダー・シングは【ある化学者とミルク】と題して話しています。

    四年ほど前に、わたしは名高い化学者と対談していました。「聖書についてすべてを知るのはとても有益だ。その各部を分析することも」と彼は述べ、説明をするためにミルク瓶を手に取り、「さて、この中にどれほど多くの糖分、その他のものが入っているか」と、成分分析に入り、すべてを分析して見せました。満足気な彼に、わたしはいいました。「非常に興味深い。これに反対はできませんが、あなたの三歳のお子さんの方がずっと優れています。この子はミルクの分析はできない。しかし、それを飲み、体験からミルクが甘いことを知っているし、飲むことによって日々強い子に成長しているではありませんか。子供は、ミルクの成分は知らなくとも、大切なことを二つ知っています。ミルクは甘いということ、飲めば強く育つということです。あなたは、ミルクを分析しただけで、そこから何の恩恵も得ていないばかりか、ミルクを腐らせてしまっています」

 神の言葉を分析できる化学者は大勢います。「これはパレスチナのこと、これはギリシャのこと、等々」と彼らは語ります。彼らは、いろいろなやり方でそれについて沢山の事柄を解説してみせますが、霊的なミルクをけっして飲みません。彼らは分析するだけで、神の言葉を飲まないため、誘惑を克服するに十分な強さを得られずにいます。聖書の批判研究に大きな危険があるというのはこのためです。子供を抱いて「天国とはこのようなものです」と言われた主は、このことをよくご存じでありました。あなた方は、手に取って飲む子供のようでなければなりません。子供のような信仰を持つ人々は奇跡的な働きをしています。彼らは、聖霊の力に動かされ、他の人々の心を動かします。学者は頭をひねり、他人の頭を動かすことはできても、心を動かすことはできません。頭から出てくるものは頭にしか触れません。しかし、心から出てくるものは心に触れます。心の造り手である主は、人の心に触れるのです。そうなるのは、祈りの中で、主とともに静かな時を過ごすときです。そのときに、心はわれわれの主であり、王の王であられる方の座となります。そこにおいて、主は心の言葉で霊魂に語りかけ、多くの驚くべき事柄を啓示され、わたしたちは主の栄光を見、多くのことを理解します。このようなことは、霊的経験を通してのみ可能なのです。〜サンダー・シング〜

「完全な者」になるために、「❹すべてに十分な神」אֵ֣ל שַׁדַּ֔י  エル シャダイ の前に歩み、そのשַׁדַּ֔י「胸」に抱かれて、そのשַׁדַּ֔י「乳房」から、満ち満ちた神の豊かさを受けて、幼子のように安心して身を委ね、そのミルク(聖言.啓示)で成長するのです。神の愛の中に生かされている❻innocent  (無邪気な・罪のない)幼子は、敵にも微笑みかけ、迫害する者に笑顔を見せます。いつも母親に愛されている赤ちゃんを見ればわかることです。しかし、その赤子のように全幅の信頼を神に預けて生きることは、化学者の理解ではなく、実践です。その人は、畏れや人への敵意がない全き平安の日々を送ります。


 

エペソ3:19

そして知識を超越したキリストの愛を知ることができるように.また、あなたがたが満たされて、神の全豊満へと至るように。

コロサイ1章

1:19なぜなら、御子の中に、全豊満は住むことを喜ばれ、

1:20 彼を通して万物を、すなわち、彼を通して、地にあるもの天にあるものをご自身に和解させ、彼の十字架の血を通して、平和をつくることを喜ばれたからです。
1:21かつてあなたがたは神から離れていて、悪い行ないのために、あなたがたの思いの中で敵であったのですが、
1:22今や彼は、ご自身の肉の体において、死を通して和解させてくださいました.それは、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、彼の御前にささげるためでした.
1:23ただ、あなたがたは❼その信仰の中に居続け、土台づけられて動揺することなく、すでに聞いた❽福音の望みから動かされることがないようにしなさい.この福音は、天の下の全被造物に宣べ伝えられ、わたしパウロは、その奉仕者となったのです。(回復訳)  アァメン。

 

1章23節 フットノート❼
「わたしたちの信じる行為ではなく、わたしたちが信じる対象です。」

❼その信仰とは、イエス・キリストのピスティスです。

1章23節 フットノート❽
「キリストはわたしたちの中で、栄光の望みです(27節)。この方から、わたしたちは移っていくべきではありません。」

❽福音の望みとは、イエス・キリストご自身です。

イエス・キリストの信仰の中に居続け、土台づけられて動揺することなく、❽福音の望みであるイエス・キリストご自身を望み、動かされることはないのです。

栄化というより、基本的な信仰の土台についての説明になってしまいました。幼子のように主に抱かれて、父とひとつになることが完全な信仰の秘訣です。

 

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/01/13/111415

 

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/03/10/095022

 

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2017/07/09/235748

 

 

 

報道の自由? 〜日本は67位

国境なき記者団」が毎年発表している報道の自由度ランキングによれば、2019年は、、、

ノルウェー1位

スウェーデン3位

ドイツ13位

カナダ18位

フランス32位

イタリア43位

英国33位

韓国41位

台湾42位

米国48位

ニジェール66位

日本67位

香港73位

イスラエル88位

ロシア149位

中国177位

北朝鮮179位

 

香港の100万人デモのことを対岸の火事としている日本人。自国の報道自由度は、さて何位でしょうか?

マルコによる福音書‬ ‭13:10

「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」(新共同訳‬‬)

第一のものを第一に

C.S  ルイスの手紙について、先輩から送っていただいた文章は、示唆に富むものでした。シェアさせて下さい。

ルイスは長い手紙の最後に、こう書き記している。

「もし私が、かけがいのない地上の家族を愛する以上に、神を愛することを学ぶなら、今よりもはるかに素晴らしく、地上の家族を愛することができるようになるだろう。

しかし、神を愛することをしないで、神の代わりに地上の家族を愛するなら、私は彼らを全く愛さない状態に向かって進むことになるだろう。

第一のものを第一にするなら、第二のものは妨害を受けるのではなく、むしろ栄えることになる」。

C.S  ルイスの霊性の高さが感じられます。
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2019.6.14撮影

 

戦争への罠が... 〜イランは米国を信用しない

安倍首相のイラン訪問中に、なぜか米国は、イランの最高指導者直属の精鋭部隊イスラム革命防衛隊の「コッズ部隊」に関連するとして、12日新たにイラク拠点の企業と関係者を経済制裁の対象に指定した。米国とイランの緊張が高まる中、安倍首相は同日、緊張緩和へ乗り出したが、このタイミングでトランプ政権はイランに圧力をかけ続ける姿勢を示した。首相の仲介に対し、イランのハメネイ氏はトランプ米大統領との対話を拒否した。

そして、日本時間13日正午前、ホルムズ海峡で日本の海運会社が運航するタンカーなど2隻が攻撃された。滅多にない事件だが、このタイミングが作為的だ。だれが何の為に攻撃したことやら、、、「自作自演」ということばを思いだす。

かつて、日本が、米国のイラク侵攻に加担することになった経緯を思い出した。

 

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13日消火にあたるイラン軍

 

https://mainichi.jp/articles/20190613/k00/00m/030/256000c

トマスの福音書46 〜新しい契約の譬え

継続してトマスの福音書を解説し、意訳しています。

46節

*Said-JS46this: no-way can-a-man climb onto-horses  two &()-stretch bows -two(f), > and no-way can-a-servant serve-Lords -two, or he-will-honor the-one, and the-other-one, he-will-despise him. > No-man drinks-wine-old, and immediately (he)- desires to-drink wine  new. > And they-do-not-pour- -wine new (in)to-wine-skins old, so that they-not-split(open). And do-not-they-pour-wine  old into-wineskins new, so that  he-destroy-him; >they-do-not-sew-patches
old to-garments new, because there()-a-split will-come-into-being.

46直訳

JS46「イエスはこう言った:❶人が二頭の馬に乗ることはできないし、二本の弓を引くことはできない、>そして❷ひとりの召使いが二人の主人に仕えることはできない、さもなければ、彼はひとりを敬い、そして、もうひとりを彼は軽んじる。>❸古いワインを飲んで、すぐに新しいワインを欲しがる男はいない。>そして彼等は、❹新しいワインを古いワイン袋には注がない、それは張り裂けないため。そして彼等は、❺古いワインを新しいワイン袋には注がない、それは台無しにしないため;>彼等は❻新しい服に古い継ぎ当てを縫わない、なぜなら、そこに裂け目ができるだろう。」

 

「❶人が二頭の馬に乗ることはできないし、二本の弓を引くことはできない」は、聖書にはない、アグラファです。

その他については、共観福音書の中にも、共通する譬え話が以下のようにあります。

マタイ6:24

だれも❷二人の主人に仕えることはできない.なぜなら、人は一方を憎んで他方を愛し、一方を重んじて他方を軽んじるからである。あなたがたは、❼神とマモンとに仕えることはできない。(回復訳)

まず前半については、マタイ伝に譬え話の示唆がありました。「❷二人の主人に仕えることはできない」、それは、「❼神とマモン(金銭)とに仕えることはできない」ことを言っています。二頭の馬や二本の弓も同じことを言っていると考えられます。神に仕えることで、行き先を定め、的を射るように言っているのでしょう。

後半の譬え話は、新しいものと古いものの対比です。

マルコ伝2章

2:18さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人が断食していた。彼らは来てイエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちが断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか?」
2:19イエスは彼らに言われた、「婚宴の間にいる子たちは、花婿が一緒にいるのに、断食することができようか? 花婿が一緒である限り、彼らは断食することはできない。
2:20しかし、花婿が彼らから取り去られる日が来る.そうなれば、彼らはその日に断食するであろう。
2:21だれも、❽縮ませていない布切れを古い衣に縫いつけはしない.そんなことをしたなら、継ぎ当てた新しい布切れは、古い衣を引き裂き、破れはもっとひどくなる。
2:22まただれも、❹新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない.そんなことをしたなら、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋も駄目になる.新しいぶどう酒は新鮮な皮袋に入れるものである」。(回復訳)

❽はトマス福音書の❻と比べて「新しい/古い」が逆になっています。

ここでは、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちが断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか」とバプテスマのヨハネパリサイ派の律法による旧約の教えとキリストのもたらした福音=新しい救い=新約とを対比させ、新しい福音が、異質なものであると示唆しています。

ルカ伝5章

5:39また、❸古いぶどう酒を飲んだ者は、新しいものを欲しがりはしない.『古いほうが良い』と言うからである」。(回復訳)

ルカ伝では、「❸古いぶどう酒を飲んだ者は、新しいものを欲しがりはしない」と言って、旧約に縛られるパリサイ人を批判しています。

ヘブル8章には、古い契約と新しい契約について語っています。

8:7もし、あの第一の契約(古い契約)に欠けたところがなかったなら、第二のもの(新しい契約)を求める余地はなかったでしょう。
8:8神は彼らをとがめて言っておられます、「主は言われる、見よ、その日が来る.わたしはイスラエルの家とユダの家に、新しい契約を完成する.
8:9それは、わたしが彼らの父祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと立てた契約のようなものではない.彼らがわたしの契約の中にとどまらなかったので、わたしは彼らを顧みなかったと主は言われる。
8:10それらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれであると主は言われる.❾わたしはわたしの律法を彼らの思いの中に分け与え、それを彼らの心に書き記す.わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
8:11そして、彼らはそれぞれ同じ国民に、またそれぞれ兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してない.それは、小さな者から大きな者まで、彼らがみな、わたしを知るからである。
8:12わたしは彼らの不義に対してなだめとなり、もはや彼らの罪を決して思い出さないからである」。
8:13➓彼は「新しい契約」と言って、第一のものを古いとされたのです。古くなり、また衰えていくものは、すぐに消え去ります。(回復訳)

ヘブル8:10では、「❾わたしはわたしの律法を彼らの思いの中に分け与え、それを彼らの心に書き記す.わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と言っています。神の律法を石ではなく、われわれの心に書き記すことで、律法を心から行う人々を作り出すのが、新しい契約なのですね。新しい契約に古い契約をパッチワークしてはならないのです。新しい契約を古い契約の袋に入れないし、古い契約を新しい契約の袋にも入れないのです。新しい契約が来たとき、それぞれ兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してないのです(8:11)。

キリストの福音は、律法主義ではなく、心から

の変革による救いなのです。

46意訳

JS46「イエスはこう言った:❶人が二頭の馬に乗ることはできないし、二本の弓を引くことはできない、>そして❷一人の召使いが二人の主人に仕えることはできない、さもなければ、彼は一人を敬い、そして、もう一人を軽んじる。(❼神とマモン(金銭)と両者に仕えることはできない。)

>❸古いワインを飲んで、すぐに新しいワインを欲しがる男はいない。>そして彼等は、❹新しいワインを古いワイン袋には注がない、それは(袋が)張り裂けないためだ。そして彼等は、❺古いワインを新しいワイン袋には注がない、それは(古いワインを)台無しにしないためだ;>彼等は❻新しい服に古い継ぎ当てを縫わない、なぜなら、そこ(新しい服)に裂け目ができるだろうから。(➓イエスは「新しい契約」をもたらし、第一のもの(旧約)を古いものとされたのです。古くなり、また衰えていくものは、すぐに消え去ります。)」

 

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2019.6.12撮影

しかし、マタイ伝13章には、新しいものと古いものを取り出す聖書学者についての大切な聖句があります。

マタイ伝13:52
そこで、イエスは彼らに言われた、「こういうわけで、天の王国の弟子となったすべての聖書学者は、自分の*倉から新しい物と古い物を取り出す家の主人のようなものである」。
*13章52節 フットノート
王国の奥義に関する七つのたとえを与えた後、主は弟子となった聖書学者を、倉、すなわち、新しい物と古い物の豊富な蓄えを持っている一家の主人にたとえられました。新しい物と古い物は、聖書の新しい知識と古い知識だけではなく、王国での命の新しい経験と古い経験をも象徴しています。(回復訳)

 

天の王国の弟子となったすべての聖書学者は、王国での命の新しい経験と古い経験をも知っています。それを倉から取り出すとは、どういうことかを知る時、畏怖を感じます。