神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

朝のご臨在 〜輪のような裁き

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2019.12.5撮影

終末のしるしについて〜第四エズラ

「「では、しるしについて語ろう。見よ、その日が来て、地上に住む人々は大いなる恐怖に捕らえられ、真理の道は隠され、国土は信仰の不毛の地となるだろう。 そして不義が、あなた自身が見ている以上に、また、あなたがかつて聞いた以上に増えるだろう。 また、あなたが今見ているその国は世界を支配しているが、やがて乱れて廃虚となり、人はそこに荒れ地を見るようになる。 しかし、もしいと高き方があなたに生き残るのをお許しになるなら、三日の後に天変地異を見るであろう。突如として夜中に太陽が輝き、 真昼に月が照る。その上、木から血が滴り落ち、石が声を発し、人々は恐慌を来し、星は軌道を脱するだろう。 そして、地に住む人の望まぬ人物が支配するようになり、鳥さえもみな渡り去るだろう。 ソドムの海は魚を吐き出し、夜にはえたいの知れぬ妖怪が声を発し、すべての人がその声を耳にする。 方々で深淵が口を開き、そこから繰り返し炎が吹き上がる。野獣はその住みかを捨てて移り歩き、月経中の女は怪物を産むだろう。 淡水に塩が混じり、友人どうしがいがみ合うようになるだろう。分別は隠れ、知性は己の住みかに引きこもって、 多くの人がそれを捜すが見いだせない。地上には不義と放縦がはびこる。 一つの国は隣の国に、『だれか公正を行う人が、あなたの所を通りましたか』と尋ねる。するとその国は『否』と答えるだろう。 その時には、人々は望んでも得られず、働いても道は整えられない。 これらのしるしを、あなたに示すことは許されている。しかし、もしあなたが更に祈り、今のように涙をもって嘆願を続け、七日間の断食を行うならば、これよりも、更に大いなることが聞ける。」」
‭‭エズラ記(ラテン語)‬ ‭5:1-13‬ ‭(新共同訳‬‬)
「天使は言った。「わたしの裁きを輪のようにしよう。最後の者たちが遅れるわけでもなく、先頭の者たちが早くなるわけでもない。」」
‭‭エズラ記(ラテン語)‬ ‭5:42‬ ‭(新共同訳‬‬)

裁きは、輪のように、、、右にはエノク、左にはアブラハムが並んだとき、私は耐えられるのだろうか?主イエスと同じ姿に変えられるとき、裁きに耐えられるのでしょう。

 

主よ、中村哲医師を守りたまえ

アフガニスタンで活動するペシャワール会中村哲師が銃撃されたと、ナンガルハル州の警察が伝えた。主よ、中村哲医師の生命を守りたまえ!

 

追伸

残念です。中村師は、天に召されました。師は一粒の麦となり、アフガニスタンを変えていかれるのでしょう。

NHKニュースより

アフガニスタンで銃撃された中村哲医師死亡

12/04 16:33

アフガニスタンで、長年、農業用水路の建設など復興に携わってきた医師の中村哲さんが4日、東部ナンガルハル州を車で移動中に何者かに銃撃され、病院で手当てを受けていましたが、死亡しました。

アフガニスタン東部ナンガルハル州の警察などによりますと、福岡市のNGO、「ペシャワール会」の現地代表の医師、中村哲さんが現地時間の4日午前、日本時間のきょう午後、ナンガルハル州の州都ジャララバードを車で移動中に、何者かに銃撃されました。

中村さんは、けがをして病院で手当てを受けていましたが、病院関係者や地元の当局者によりますと、その後、死亡が確認されたということです。

地元の警察などによりますと、同乗していた運転手や警備員など5人も死亡したということです。

中村さんは、アフガニスタンで、長年、農業用水路の建設など復興に携わってきました。

現場となったアフガニスタン東部は、イスラム過激派の活動が活発な地域で、最近では、反政府武装勢力タリバンに加え、過激派組織IS=イスラミックステートの地域組織が台頭し、治安が悪化していました。

事件の発生を受けて、タリバンは声明を出し、「今回、ジャララバードで起きた事件について関与を否定する。日本のNGOは、われわれの土地でこれまで復興支援に取り組んできており、攻撃の対象にしたことは一切ない」として、犯行への関与を否定しました。

タリバンが事件の発生後、速やかに関与を否定した背景には、長年、農業用水路の建設などに携わり、アフガニスタンの人たちに高く評価されている中村さんを襲撃すれば、かえって世論の反発を招きかねないという懸念もあったものとみられます。

 

❤️栄化への実践15 〜キリストとひとつに

レビ記23章より、

イスラエルの人々に告げなさい。 第七の月の十五日から主のために七日間の仮庵祭が始まる。 初日に聖なる集会を開きなさい。いかなる仕事もしてはならない。❶ 七日の間、燃やして主にささげる物をささげ続ける。❷八日目には聖なる集会を開き、燃やして主にささげる物をささげる。これは聖なる集まりである。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。 以上がイスラエルの人々を聖なる集会に召集すべき主の祝日である。あなたたちはこれらの定められた日に、燃やして主にささげる❸焼き尽くす献げ物、❹穀物の献げ物、❺和解の献げ物、❻ぶどう酒の献げ物をささげる。 このほかに主の安息日、主にささげるさまざまの献げ物、満願の献げ物、随意の献げ物がある。 なお第七の月の十五日、あなたたちが農作物を収穫するときは、七日の間主の祭りを祝いなさい。初日にも八日目にも安息の日を守りなさい。 初日には❼立派な木の実、❽なつめやしの葉、❾茂った木の枝、➓川柳の枝を取って来て、あなたたちの神、主の御前に七日の間、喜び祝う。 毎年七日の間、これを主の祭りとして祝う。第七の月にこの祭りを祝うことは、代々にわたって守るべき不変の定めである。 あなたたちは七日の間、⓫仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。 これは、わたしがイスラエルの人々を⓬エジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。」‭‭レビ記‬ ‭23:34-43‬ ‭(新共同訳‬‬)

⓫仮庵の祭り(スコット)は、過越祭(ペサハ)と七週の祭り(シャブオット)とともにユダヤ教三大祭の一つです。スコット(Sukkot)とはヘブル語で「⓫仮庵」のことで、ユダヤ人の祖先が⓬エジプト脱出のとき荒野で天幕に住んだことを記念し、祭りの間、⓫仮設の家スカー(仮庵)を建てて荒野の生活を子供たちに教えることも目的になっています。

旧約聖書レビ記では、祭りの際にイスラエルの地のユダヤ教徒成人男性は、エルサレム神殿へ巡礼することが要求されています。期間は、ユダヤ暦ティシュリ月15日からの7日間であり、 8日目に集会を開いて犠牲を捧げています。初日と8日目は安息日にあたり、仕事をすることは禁じられます。この祭りは、秋の収穫祭の側面ももちます。パレスチナ地方では秋は果物の収穫期であり、レビ記23:40によれば、「❼初日には立派な木の実、❽なつめやしの葉、❾茂った木の枝、➓川柳の枝を取って来て、あなたたちの神、主の御前に七日の間、喜び祝う」とあります。初日から7日間、みな⓫仮庵に住み、また毎日「焼き尽くす献げ物」(❸焼き尽くす献げ物、❹穀物の献げ物、❺和解の献げ物、❻ぶどう酒の献げ物)が献げられました。神殿崩壊以後は犠牲は行われていませんが、イエスの時代には、祭りの期間中、毎日シロアムの池からエルサレム神殿へ黄金の器で水を汲んで運び、朝晩二回犠牲の供え物とともに、⓭祭壇に水を注ぐ行事が行われました。ヨハネ伝7:38の「わたしの中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、⓮生ける水の川々が流れ出る」は、この行事と関連づけられた言葉です。

※仮庵祭の四種の植物を束ねたルーラブの写真です。

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仮庵祭では、四種の植物を束ねて、東西南北上下すべての方向に向けて振り、以下のように祝福を述べます。


Baruch atah, Adonai Eloheinu, Melech haolam,
asher kid'shanu b'mitzvotav v'tzivanu al n'tilat lulav.
Blessed are You, Adonai our God, Sovereign of all, who hallows us with mitzvot, commanding us to take up the lulav.

「わが神主よ、あなたに祝福がありますように、すべての主権者、私たちにルーラブを持ち上げるように命じ、戒律により私たちを聖める方。」

 

これら四種の植物が成長するためには、多くの水を必要とします。 ❽lulav(ナツメヤシ)は、水の多い谷で育ち、❾hadass(ミルトス)と➓aravah(川柳)は水源の近くで育ちます。❼ etrog(シトロン)も多くの水が必要です。これらの植物を束ね、あらゆる方向に向け振ることにより、ユダヤ人は来年のすべての植生のための豊かな降雨を祈ります。

 

ミドラッシュVayikra Rabbah 30:14より

ラビ・マニは、開きました。「 わたしのすべての骨は叫びます。 『主よ、あなたに並ぶものはありません。 』」詩編‬ ‭35:10‬ ‭

この詩は、ルーラブ(四種の植物)についてだけ述べたものです。
ナツメヤシの枝は人間の背骨に似ています。❾ミルトスは目に似ています。➓川柳は口に似ています。そして❼エトログ(シトロン)は心臓に似ています。 ダビデは言いました。「四肢のすべてで、身体全体を比べても、これらよりも偉大なものはありません。」

これは、「わたしのすべての骨が叫びます」を意味します。〜以上

 

四種の植物は、写真左から❼シトロン=心臓、❾ミルトス=目、❽ナツメヤシ=脊柱、➓柳=口という人間の各部分を表すと言われます。❼心臓、❾目、❽背骨、➓口は身体の重要な器官で、その重要な器官が『主よ、あなたに並ぶものはありません 』と讃美しながら、生ける水を慕い求めるのです。

 

栄化への実践1では、「❾霊眼を開く」ことについて説明しました。サンダー・シングは、天界へ昇ったとき、❾単一の目=霊眼について「天界では、肉眼によってではなく、❾霊眼によってものを見る。わたしは、この❾霊眼が、肉体を離れ去った後で、誰もが使うものであると言われた」と語っています。

また、栄化への実践7では、「➓異言(グローサ)について説明しました。敬愛する師は、次のように語りました。「神の御霊が人間に臨むと、人は変わって、“新しき人”となり、“➓新しき言葉(グローサ)”を語るに至る(マルコ16: 17)とあるが、この“➓異言"は、「神に語り、思想伝達するに最も適当な言葉である。自分にも他人にも不可解でも、霊に於いて神秘を語りつつ、自己の霊性を建設するに於いては、実に奇すしき霊修法となる」と、パウロはコリント前書14章の初頭に申しています」。

“➓新しき言葉(グローサ)”="異言"は、神に語り、思想伝達するに最も適当な言葉で、聖霊に➓口や舌が支配されて、発する言葉です。

❾霊眼と➓口(新しい言葉)は、天界を見、天界の主なる神と語るための大切な器官です。これに加えて、❼心臓、❽背骨(脊柱)を献げ、主に支配してもらうことで、キリストとひとつになって行くことが示されています。

それらは、ヨハネ伝7:38の「わたしの中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、⓮生ける水の川々が流れ出る」に関係してくるようです。

 

仮庵の祭りで四種の植物=四つの器官を献げるとは、どういうことでしょうか?経験とともに探っていきます。

法華経はトマス の教え?

保有政師の「法華経のシャカ像の元はキリストだった」は、確かに同意できるものです。

動画↓

https://youtu.be/7AKftiYWJ20

確かに小乗仏教から大乗仏教への大変化は、同じ宗教とは思えないような変容です。

その背後には、使徒トマス  のインドや中国でのキリスト教宣教が影響していると感じます。

法華経のような基本的な仏教経典が、キリスト教の影響を受けてシャカの教えを大幅に変えたものだとしたら、大乗仏教の諸宗派は、もはや仏教ではないのかも知れません。

昨日から時間を割いて親鸞歎異抄を読みましたが、この経典も、肝心なところは聖書の焼き直しでした。失礼ながら、読んでも薄っぺらなものと感じてしまいます。こう言うと、「仏縁がない」、「罰当たりだ」と、原始時代のシャーマンや呪術師のようなことを言う仏教徒がいますが、そんなことばかり言って、頑なになっている状態で正しい判断ができているのでしょうか?

なぜ薄っぺらかと言うと、経典では聖書のキリストの言葉の部分的なものを扱っているだけですから、聖書を読んでいる者には、物足りなく感じてしまうのでしょう。例えば、

「そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。」
(なぜ悪人でも、阿弥陀仏の本願を信ずる一つで救われるのかといえば、煩悩の激しい、最も罪の重い悪人を助けるために立てられたのが、阿弥陀仏の本願だからです。)〜歎異抄第1章 摂取不捨の利益

これに当てはまるマタイ伝のキリストの言葉は、

ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭9:11-13‬ ‭新共同訳‬‬

などこの一句に関してでも、まだ他にも同じような聖書の話しが複数あります。

今夏、ある仏教のホームページで他の句を挙げて、「こんなお言葉は、他にはないだろう」と熱を入れて語っていましたので、「それマタイ伝の言葉だよ」とマタイによる福音書‬ ‭28章20節を示すと、急に勢いがなくなり、ホームページのトップで語っていた文章を"そっと"消してしまわれました。

私は、日蓮親鸞を宗教者として尊敬しますが、こんな僧侶の姿や、宗派間で誹謗中傷合戦を繰り返している日本の仏教諸派の教役者を見ると、とても残念に思います。

仏教をご商売でされている方もいるようですが、極楽か地獄かをかけて信仰されているなら、経典のルーツがどこから来たかをよくお調べになるべきだと思います。真言宗の方は、東方キリスト教(景教ネストリウス派)の影響をお認めになっていますが、多くの仏教徒の方は、伝統に流されるだけで仏教を続けていては、真実の神様を見出せずに、後悔されるのではないでしょうか?どうか、公正な視点で、ご自身の信仰しているものを調べ、点検してみてください。

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/08/16/143233

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長崎の教皇 〜核兵器禁止条約を勧める

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被爆国でありながら、核兵器禁止条約に加わらない、日本。教皇は、メッセージの中で示唆します。

核兵器についてのメッセージ

2019年11月24日


愛する兄弟姉妹の皆さん。

この場所は、わたしたち人間が過ちを犯しうる存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識させてくれます。近年、浦上教会で見いだされた被爆十字架とマリア像は、被爆なさったかたとそのご家族が生身の身体に受けられた筆舌に尽くしがたい苦しみを、あらためて思い起こさせてくれます。

人の心にあるもっとも深い望みの一つは、平和と安定への望みです。核兵器大量破壊兵器を所有することは、この望みへの最良のこたえではありません。それどころか、この望みをたえず試みにさらすことになるのです。わたしたちの世界は、手に負えない分裂の中にあります。それは、恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。人と人の関係をむしばみ、相互の対話を阻んでしまうものです。

国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や、壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相いれないものです。むしろ、現在と未来のすべての人類家族が共有する相互尊重と奉仕への協力と連帯という、世界的な倫理によってのみ実現可能となります。

ここは、核兵器が人道的にも環境にも悲劇的な結末をもたらすことの証人である町です。そして、軍備拡張競争に反対する声は、小さくともつねに上がっています。軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは途方もないテロ行為です。

核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。この理想を実現するには、すべての人の参加が必要です。個々人、宗教団体、市民社会核兵器保有国も、非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなくてはなりません。それは、現今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す、困難ながらも堅固な構造を土台とした、相互の信頼に基づくものです。1963年に聖ヨハネ23世教皇は、回勅『地上の平和(パーチェム・イン・テリス)』で核兵器の禁止を世界に訴えていますが(112番[邦訳60番]参照)、そこではこう断言してもいます。「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」(113番[邦訳61番])。

今、拡大しつつある、相互不信の流れを壊さなくてはなりません。相互不信によって、兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険があるのです。わたしたちは、多国間主義の衰退を目の当たりにしています。それは、兵器の技術革新にあってさらに危険なことです。この指摘は、相互の結びつきを特徴とする現今の情勢から見ると的を射ていないように見えるかもしれませんが、あらゆる国の指導者が緊急に注意を払うだけでなく、力を注ぎ込むべき点なのです。

カトリック教会としては、人々と国家間の平和の実現に向けて不退転の決意を固めています。それは、神に対し、そしてこの地上のあらゆる人に対する責務なのです。核兵器禁止条約を含め、核軍縮と核不拡散に関する主要な国際的な法的原則に則り、飽くことなく、迅速に行動し、訴えていくことでしょう。昨年の7月、日本司教協議会は、核兵器廃絶の呼びかけを行いました。また、日本の教会では毎年8月に、平和に向けた10日間の平和旬間を行っています。どうか、祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが、わたしたちが信を置く「武器」でありますように。また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように。

核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、政治をつかさどる指導者の皆さんにお願いします。核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えなくてはなりません。核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければなりません。今の地球の状態から見ると、その資源がどのように使われるのかを真剣に考察することが必要です。複雑で困難な持続可能な開発のための2030アジェンダの達成、すなわち人類の全人的発展という目的を達成するためにも、真剣に考察しなくてはなりません。1964年に、すでに教皇パウロ6世は、防衛費の一部から世界基金を創設し、貧しい人々の援助に充てることを提案しています(「ムンバイでの報道記者へのスピーチ(1964年12月4日)」。回勅『ポプロールム・プログレッシオ(1967年3月26日)』参照)。

こういったことすべてのために、信頼関係と相互の発展とを確かなものとするための構造を作り上げ、状況に対応できる指導者たちの協力を得ることが、きわめて重要です。責務には、わたしたち皆がかかわっていますし、全員が必要とされています。今日、わたしたちが心を痛めている何百万という人の苦しみに、無関心でいてよい人はいません。傷の痛みに叫ぶ兄弟の声に耳を塞いでよい人はどこにもいません。対話することのできない文化による破滅を前に目を閉ざしてよい人はどこにもいません。

心を改めることができるよう、また、いのちの文化、ゆるしの文化、兄弟愛の文化が勝利を収めるよう、毎日心を一つにして祈ってくださるようお願いします。共通の目的地を目指す中で、相互の違いを認め保証する兄弟愛です。

ここにおられる皆さんの中には、カトリック信者でないかたもおられることでしょう。でも、アッシジ聖フランシスコに由来する平和を求める祈りは、私たち全員の祈りとなると確信しています。

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみがあるところに愛を、
いさかいがあるところにゆるしを、
疑いのあるところに信仰を、
絶望があるところに希望を、
闇に光を、
悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください。

記憶にとどめるこの場所、それはわたしたちをハッとさせ、無関心でいることを許さないだけでなく、神にもと信頼を寄せるよう促してくれます。また、わたしたちが真の平和の道具となって働くよう勧めてくれています。過去と同じ過ちを犯さないためにも勧めているのです。

皆さんとご家族、そして、全国民が、繁栄と社会の和の恵みを享受できますようお祈りいたします。〜以上266代教皇フランシスコ

(長崎・爆心地公園にて)

 

「武器の製造・改良・維持・販売にあれほどの金額が費やされ、得られていることは天罰に値するテロ行為です」とは、武器輸出を合法とし海外へ武器輸出を始めた日本への戒めの言葉でしょう。

また、「核兵器禁止条約を含め、核軍縮と核不拡散に関する主要な国際的な法的原則に則り、飽くことなく、迅速に行動し、訴えていく」とは、核兵器禁止条約に加盟しない唯一の被爆国 日本への戒め、否、そんな良心のない政治家を選んでいる日本人への回心を訴えているのでしょう。

今も日本人は、焼き場に佇んで、第二第三の核兵器の順番待ちをしているのでしょう。

 

https://president.jp/articles/-/31119