神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

❤️光に向かって進め   ~天の臨在は光を放ち導いている SS1

      法然親鸞によって伝えられた念仏「南無阿弥陀仏」は、インド華厳経の十地品にナーガールジュナ(150~250年頃)が注釈した十住毘婆沙論の第九章易行品に出てくる言葉です。

「南無」はナモー(namo)で「帰依、礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味します。「阿弥陀仏」は、「アミターバ(無量の光明, amitābha)」と「アミターユス(無量の寿命, amitāyus)」。併せて「光に向かえ、光を礼拝せよ、永遠の命に帰れ」などの意味になります。真理を追究した宗教人が見出すのは、この「光」なのでしょう。浄土宗の開祖法然は、念仏を禁じられ晩年は不遇でしたが、瞑想の中で闇夜に全身が輝いていたと弟子が伝えています。

ヨハネ伝には、光について、死後の裁きについて、明確に書いています。
ヨハネ伝3:16ー21
「16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を❶信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
17 神が御子を世につかわされたのは、❷世をさばくためではなく、御子によって、❸この世が救われるためである。
18 ❹彼を信じる者は、さばかれない。❺信じない者は、すでにさばかれている。➏神のひとり子の名を信じることをしないからである。
19 ❼そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりも❼やみの方を愛したことである。
20 ❼悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、❼光にこようとはしない。
21 しかし、❽真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。」

 イエスは、❶信じる者を救おうとされています。主は、❷この世をさばくためにきたのではない。❸この世を救うために来ました。しかし、さばくのは自分自身です。❹信じる者は、さばかれず、❺信じない者は、すでにさばかれていると言っています。さばきとは、救い主を受け入れず、その❻御名を信じないことです。そのさばきは、各自の心が行うのです。

死後の世界では、罪にけがれた者は、恥ずかしそうに自分から暗闇に逃げていくのです。❼やみを愛し、光に照らされるのを憎み、光に来ようとしない。自分がこの世で犯した罪をあからさまにさらけ出されることを怖がるのです。(ヨハネ3:19)私も最初に天に行ったときに、自分の罪を目前に示され、心痛めました。しかし、イエス=キリストの十字架の赦しの栄光を表すために、泣きながら先に進めました。「幼子のようにならなければ、天国に入れない」といわれるとおりなのです。

天の入り口で、後ずさりして闇に消えていく方も目にしました。残念なことです。彼らが、イエス キリストの贖いが、完成していることを知っていれば、悔い改めて光に向かうことができたのに。

 天のご臨在は、光として人々にその存在を示します。神の提示する無償の救いを信じない者は、死後に現れる光の国へ入ろうとしないのです。しかし、その救いを幼子のように受け入れて❽真理を行う者は、光に向かってくるのです。
 さばきとは、主の救いを受け入れ罪ゆるされた者と、救いを受け入れず罪に汚れたよこしまな者、それぞれの特性によって自らの心が自ら行く先を選択するのです。
つまり前者は自分から光に向かい、後者は隠れるようにやみに向かうのです。

 われわれは、闇に逃げず、光に向かうことを忘れてはいけません。日本の大宗教家も、この光を見出したのだと信じています。神は、真理を求める者を放っておきません。シーク教徒のサンダーシングにも、キリストはご自身を現しました。少し紹介します。~

 インドのサンダーシングは亡き母の意志を継いで、ヒンズーの一派シーク教の宗教家として大成しようと努力しましたが、自己矛盾や、人生に絶望して自殺をはかったのです。サンダーの家の近くの鉄道で、毎朝5時に急行列車が通過します。12月の午前3時頃、目を覚ましたサンダーシングは、沐浴し身を清め、熱心に最後の祈りを始めました。

 「神がおられるなら、どうか救われる道をお示しください。自分は示された道に一生お仕えしたいのです。どうぞ、私のなすべき道を示して下さい。さもなければ、私は鉄道に飛び込んで自殺するつもりです。」

 祈りの後、5時の急行列車が通過する時刻が迫っていましたが、不思議なことが起こります。部屋の中がまぶしい光に照らし出され、その光の中に神が輝き現れたのです。彼は大いなる光を見ました。

 「それから、わたしは祈って、その光を見つめると、イエス・キリストのお姿を見た。それは、素晴らしい栄光と風貌を備えていた。仮にそれがヒンズー教の神の化身であったとしたら、わたしはその前に平伏したであろう。しかし、それはほんの数日前に侮辱を加えたイエス・キリストであった。わたしはこのような幻は私自身の空想から生まれてくるはずはないと感じた。わたしはヒンズスタン語で次のように語る声を聞いた。『いつまで、あなたはわたしを迫害するつもりか。わたしはあなたを救うために来た。あなたは正しい道を知ろうとして、祈っていた。なぜその道をとらないのか。』

 その時わたしはイエス・キリストは死んだお方ではなく、生きておられる。そのお姿こそイエス御自身にちがいないと考えた」。〜サンダー・シング

以上は、聖書を焼いたり、キリスト教に反対したシーク教徒のサンダーシングに光が顕現し、回心したときの証詞です。

 人は真心で祈るとき、神は放っておきません。何らかの答えを示してくださるのです。イエスは、キリスト教だけの救い主ではありません。ヒンズーでも仏教でもイスラムでも、真の神は人類を救うために御手を伸ばしているのです。

「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」使徒行伝17:27-28

どうぞ恐れずに、神の光に向かって進んでいきましょう。

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