「聖霊はいつでも烈しい風のような響と火のような形をもって望むのではなく、かえって「❶静かなる細き声」として、「息」のように静かに、信ずる者のたましいに吹き入れられることが普通である。エリアの場合がそうであり(列王記略上19の11参照)、イエスの母マリアの場合がそうであった(ルカ1の35参照)。かの聖霊派もしくは異言派の人々の会におけるような「騒ぎ」の中には、御霊は真の働きをもって臨み給うことはないと思われる。」~矢内原忠雄全集❻聖書講義1より
今日、主の声を聞いたが、それに従わず、自分の考えで行動し大失敗した。なぜいつも肉的な考えに従い、自分の浅い経験や理性に従って、主の声をないがしろにする自分がいるのだろうか。
「主よ、もっと大きな声で語ってください。この者は霊の耳が遠いのです!」と朝の祈りで祈った。
主の答えは、「お前はわかっているはずだ。私がお前に発する声を大きくしたら、私の考えていることをすべて瞬時に伝えてしまうことになる。それは、大変危険なことだ。」
「そのとおりです主よ。あなたの御計画も伝わるでしょう。それでは、あなたの静かな細き声に私がいつも従うように、この肉の性質を焼き尽くしてください。」
いつものように沐浴し、自分がこの世に対し殉教しているかを確認すると、咳き込みつつまだまだ肉的であることがわかった。主は、静かな細き声でわれわれの信仰を試されている。皆まで言ってもらって詳細な理由を聞いてから従っても、それがどれだけ信仰的であろうか。主の一言に、「はい」と従うのだ。しかし、ここに言い訳する自分がいる。この肉的自我から解放されたい。
列王記上19:11
「主は言われた、『出て、山の上で主の前に、立ちなさい』。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
19:12
地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に❶静かな細い声が聞えた。
19:13
エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出て❷ほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、『エリヤよ、あなたはここで何をしているのか』。」
エリヤがホレブ山に行ったときに、❶静かな細い声を聴いた。「聞く」ではなく集中した「聴く」が正しい。風や地震や火の中にではなく、その後の静寂の中に耳を澄ますとき、主の声があった。エリヤは、岩(臨在)の中の❷ほら穴のような外界から遮断されたところに近づき、はっきりとみ声を聴いた。
そのとき、主は、エリヤに「これからすべきこと」を伝えたのです。そしてエリヤはそれを実行しました。
聖霊派がいつも騒々しいわけではなく、静かに主を待ち臨む時間もあります。
また声をあげて祈るときにも、主は心に語ってくださいます。
一番大事なのは、人知を超えた主の御声を聴いたあと、「そのまま実行すること」であります。 2015.10.20