神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

霊によって示したまえ 〜未来を見る

一寸先も見えない、この3次元の世界。わたしたちは、一寸先が見えないから、大地震や疫病が世界を襲っても、その瞬間までわからないでいます。だれかに未来の出来事を聞くこともできない。人々が思い浮かべることもできないことがこの世に突然起きて、わたしたちは翻弄されます。

◾️わたしたちは、本当に未来を知ることができないのでしょうか?

その鍵となる記録が、コリント書第一にあります。

二千年前、世人は主(エホバ)がご計画された人類救出の計画を容易に理解できませんでした。それで大預言者であり、救世主であるイエス・キリストを❶十字架刑で処刑したのです。また、この世の人々は、キリストによる義認、聖別、栄光化を見たことも聞いたこともないし、理解することができません。

第一コリント2章には、こうあります。

7わたしたちが語るのは、奥義の中の神の知恵、すなわち❷隠されてきた知恵です.それは、わたしたちの栄光のために、もろもろの時代の前に神があらかじめ定められたものです.
8❷この知恵を、この時代の支配者たちは、だれ一人知りませんでした.もし知っていたなら、彼らは栄光の主を❶十字架につけはしなかったでしょう.
9このように書かれているとおりです、「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだことのないものを、神はご自身を❸愛する者たちのために備えてくださった」。
10神はわたしたちに、❹その霊を通してそれらを❺啓示されました.❹その霊はすべての事柄、神の深みさえも探られるからです。

11いったい人の事柄は、人の中にある❻人の霊のほかに、人の間でだれが知っているでしょうか? 同じように、神の事柄も、❹神の霊のほかにはだれも知りません。
12ところがわたしたちは、この世の霊ではなく、神からの❹その霊を受けたのです.それは、神によってわたしたちに、恵み深く与えられた事柄を、わたしたちが知るためです.
13わたしたちがそれらの事柄を語るのは、人の知恵によって教えられた言ではなく、❹その霊によって教えられた言であり、霊の事柄を霊の言で解釈するのです。
14しかし❽魂の人は、❹神の霊の❼事柄を受け入れません.なぜなら、彼にとって、それは愚かであるからです.また彼は、それを知ることができません.それは、霊によって識別されるものだからです。

15しかし❾霊の人は、すべての事柄を識別しますが、彼自身はだれにも識別されません。
16だれが主の思いを知って、彼に教えるでしょうか? しかしわたしたちは、キリストの思いを持っています。」(回復訳)

 

フットノート❸ 愛する者たちに備えてくださった  
神がわたしたちのために定め、備えられた深く隠された事柄を認識し、それにあずかるために、わたしたちは彼を信じるだけでなく、彼を愛することが必要です。神を畏れ、神を礼拝し、神を信じる(すなわち神を受け入れる)ことだけでは不十分です。彼を愛することが、不可欠の条件です。神を愛するとは、わたしたちの全存在―霊、魂、体を、心、魂、思い、力と共に(マルコ12:30)―完全に彼の上に置くことです。これは、わたしたちの全存在を彼に占有していただき、わたしたちが彼の中で失われることです。その結果、彼がわたしたちのすべてとなられ、わたしたちは日常生活の中で、実際的に彼と一になります。このようにして、わたしたちは神と最も近く、最も親密な交わりを持ちます。そして、わたしたちは神のみこころの中に入って、心の秘密をすべて理解することができます(詩73:25.25:14)。こうして、神のこれらの深く隠された事柄を認識し、経験し、享受し、十分にあずかるのです。(回復訳)

フットノート❺啓示
「教えられる」のとは違います。教えることは、わたしたちの思いと関係があり、啓示することは、わたしたちの霊と関係があります。神がわたしたちのために備えられた、深く隠された事柄を認識するためには、わたしたちの思いよりも、わたしたちの霊が必要です。わたしたちの全存在が、神との親密な交わりの中で神を愛することによって、神と一つになる時、神は➓❻わたしたちの霊の中に、❹彼の霊を通して、わたしたちの分け前であるキリストのあらゆる秘密を示してくださいます。これが、人の心に思い浮かんだことのない、神の知恵によって計画された、キリストについての隠された事柄を啓示することです。(回復訳)

フットノート❻人の霊
❻人の霊は、人の最も深い部分です。それには、人の事柄の最も深い所に入る機能があります。しかし人の思いは、表面的な事柄を知ることができるだけです。同じように、❹神の霊だけが、神の深い事柄を知ることができます。コリントの信者たちは、❻人の霊と❹神の霊を無視しました。そして向きを変えて、哲学によって彼らの思いの中で生きました。ですから、本書は、この➓二つの霊を正しく経験することが、召会生活を実行するために必要であることを見せているのです。(回復訳)

❻人の霊と❹神の霊:二つの霊があることが大切な鍵になります。

 

フットノート❽魂の人
❽魂の人は天然の人であり、魂(思い、感情、意志を含む)に全存在を支配させ、魂によって生きている人です。そして自分の霊を無視し、霊を用いず、霊を持たない者のようでさえあります(ユダ1:19節)。そのような人は、❹神の霊の❼事柄を受け入れませんし、それを知ることもできません。むしろ彼は、それを拒絶します。しるしを求めた宗教的なユダヤ人と知恵を追い求めた哲学的なギリシャ人は(1:22)、そのような天然の人でした。彼らにとって、❹神の霊の❼事柄は愚かでした(1:23)。(回復訳)

フットノート❾霊の人
❾霊の人とは、自分の魂を否み、魂によって生きないで、❹神の霊によって占有され活気づけられている、彼の再生された霊に、自分の全存在を支配させている人です。さらに、彼はそのような❹霊によって生き、それにしたがって動き、行動します(ローマ8:4)。そのような霊の人は、❹神の霊の❼事柄を識別することができます。なぜなら、彼の霊的な知覚の本能が、その機能を現すことができるからです。(回復訳)

「自分を否み」(マタイ16:24)とは、「自分の魂を否み、魂(思い、感情、意志を含む)によって生きない。霊によって生きろ」ということなのですね。

 

「➓❻わたしたちの霊の中に、❹彼の霊を通して、キリストのあらゆる秘密を示してくださいます」とは、わたしたちが、魂(思い、感情、意志)ではなく、➓❻わたしたちの霊と❹キリストの霊、この➓二つの霊を正しく経験することが、◾️神の知恵によって計画された(未来も含めて)、キリストについての隠された事柄を❺啓示するのですね。鍵は、自分の魂を否み、魂(思い、感情、意志)によって生きないで、❻わたしたちの霊と❹キリストの霊によって生きることなのですね。

◉霊とは何か?

日本では、霊とは幽霊や目に見えない、おどろおどろしいあの世のもののように感じてしまう人が多いと思います。しかし、うまい訳がないので、"霊"と訳しているわけで、ニアンスが違うと思います。

「霊」はギリシャ語で pneúma –  Spirit, wind, breathを意味します。「霊」だけでなく、「風、息」とも訳せます。キリストは、「風は思いのままに吹く.あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない.その霊から生まれる者もみなそうである」(ヨハネ3:8)とニコデモに言いました。

また、「わたしの中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」(ヨハネ7:38)とも語りました。

フットノート❻には、「❻人の霊は、人の最も深い部分だ」とあり、❹神の霊も、神の最も深い部分なのでしょう。それは、心の最も深い部分=「深層心理」なのかもしれません。「最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」(ヨハネ7:38回復訳)のも、それを暗示しています。

聖霊を受けると、喜びが腹から湧き上がります。それは、深層心理というよりも、腹の奥底から神の生命が湧き上がる経験です。

息は生命です(創世記2:7)。"霊"と訳すより、"息.生命"と訳した方が良いかもしれません。➓❻わたしたちの息(生命)と❹キリストの息(生命)、この➓二つの息(生命)が出会うときに、神と心を通じることができるのではないでしょうか。

 

フットノート❸には、
「神が深く隠された❼事柄を認識し、それにあずかるためには、神を畏れ、神を礼拝し、神を信じるだけでは不十分。神を愛することが、不可欠。神を愛するとは、わたしたちの全存在―霊、魂、体を、心、魂、思い、力と共にー完全に彼の上に置くこと」と説明しています。「このようにして、わたしたちは神と最も親密な交わりを持ち、神のみこころの中に入って、心の秘密をすべて理解することができます」とあります。

 

キリストの生命と交わり、わたしたちの全存在―霊、魂、体を、心、魂、思い、力と共にー完全に彼の上に置くことで、◾️未来も含めて神の心のこれらの深く隠された❼事柄を認識し、経験し、享受し、十分にあずかることができるなら、なんと素晴らしいことでしょう!これは、魂(頭)ではなく、生命の経験なのでしょう。

そうすれば、旧約のノアやダニエル、啓示録(黙示録)を書いたヨハネのように未来が見えてくるのでしょう。

わたしたちの❻人の霊と❹神である主の霊が交わるとき、聖母マリアがキリストを宿したように、神の生命と交わりキリストを宿し、わたしたちの全存在(霊、魂、体、心、思い、力)を完全に主の上に置くことで、神の心の深く隠された❼事柄を認識し、経験し、享受し、十分にあずかるのでしょう。

 

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