あのとき生き残った生命
「奇跡の少年」と呼ばれ
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いのちは、生きてこそ いのち
私も2017年に大川小学校を訪れた。子供たちのいない痛々しい校舎は、教室の時計とともに2011年3月11日の大津波の中で止まっていた。
74人の児童は、この校舎とともに3月11日に泥の中に封じ込められ止まってしまった。
生き残った者も、非日常の時間が強く心に刻みつけられたまま、3月11日で止まってしまう。
しかし、動き出して行かなければ、せっかく与えられた生命、人生は空回りする。
主イエスは、葬儀へ行かせてほしいという弟子にこう言われた。
「ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 イエスは言われた。「❸わたしに従いなさい。❶死んでいる者たちに、自分たちの❷死者を葬らせなさい。」」
マタイによる福音書 8:21-22 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/mat.8.22.新共同訳
「またもう一人の弟子が彼に言った、「主よ、まず、わたしの父を葬りに行かせてください」。
しかし、イエスは彼に言われた、「❸わたしに従って来なさい.そして❶死人に彼らの❷死人を葬らせなさい」」(回復訳)
8章22節 フットノート❶
最初の「❶死人」は、エペソ人への手紙第2章1節と5節に述べられたような、霊的に死んでいる人のことを言います。二番目の「❷死人」は、その弟子の肉体的に死んだ父親のことを言っています。
(回復訳)
主イエスは、「❶死人(霊的に死んでいる人)に彼らの❷死人(肉体的に死んだ父親)を葬らせなさい」と言っています。
霊的に死んでいる人に葬儀をさせろと言う。
葬儀をする者たちを霊的に死んでいる人だとも言っているのだ。
また主イエスは「❸わたしに従いなさい」それが優先事項だとも言っているのですね。
「❶死んでいる者たちに、自分たちの❷死者を葬らせなさい」とは、生き残った者も、3月11日で止まってしまうなら、「霊的に死んでいる人だ」ということだろう。死者を弔うためにメソメソしていたら、死者たちの仲間になってしまい、それは❶死んでいる者たちと同じということか。
生命のために動き出して行かなければ、せっかく与えられた生命、自身の人生は空しくなると言うことだろう。
また、死人でなく、生きている人のために救いの手をのばせということか。
安息日について、こう言われる。
「イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、❹善を行うことか、悪を行うことか。❺命を救うことか、滅ぼすことか。」 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。」
ルカによる福音書 6:8-10 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/luk.6.9-10.新共同訳
ユダヤ教の大切な安息日でも、❹善を行うこと、❺命を救うことの活動は、優先されると言いたいのだろう。
この言葉は、中村哲医師の本を思い出させる。
宗教的信念も、いらない。ただ、「苦しんでいる人がいるから、❺生命を救え!」
キリストの気持ちが伝わってくるのだ。そこにあるのは、愛の情動だ。
そして、イエスは「❸わたしに従いなさい」と言われた。
また、災害についてこう語っている。
「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも❻悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」」
ルカによる福音書 13:4-5 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/luk.13.4-5.新共同訳
「あなたがたも❻悔い改め(転換し)なければ、皆同じように滅びる」厳しい言葉だ。
私たちは、信念はいらない。愛の情動で生きろ。生き残った自分の生命を、苦しんでいる人たちのために、❺生命を救うために、有効活用していくのだ。