神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

❤️栄化への実践5 〜世の宗教に救いなし

【諸宗教の勘違い】

多くの宗教は、家内安全、無病息災などこの世のご利益を求めることを目的として、正月にはたくさんの人を集めます。また、お金持ちになりたい、病気を治したい、安産祈願、○○大学合格と願って、あそこの寺院や向こうの社寺仏閣へと足を運びます。

近年では、パワースポットが人気で、あそこの神社のご神木はパワーがあると聞けば、大勢が押しかけたり、こっちの滝はパワーがすごいとネットに出れば、バスツアーまで企画されますから驚かされます。

もう少し見識のある方だと煩悩を消したい、平安が欲しい、人生の意味を悟りたい、自分の魂に空いた穴を埋めたい、自分の魂を救いたい...と種々の宗教を渡り歩き、もがき続けます。そのために長時間修行し、瞑想し、何とか悟りを開きたいと奮闘するのです。

いくら修行しても、心の平安がなく、それを見出せないことがわかると、仏教のように「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」を知り、苦しみが生まれる原因を、「諸行無常(すべてはうつり変わるもの )」で、「諸法無我(すべては繋がりの中で変化している)」と理解しろ(敢えて言うなら、あきらめろ)と教えます。すべては変化するのだから不変のものは無い。自分も変化して無くなるから「無我」だと諭す宗教哲学(思想)が生まれたわけです。しかし、無我であっても、なぜか四諦八正道(苦悩の克服方法と正しい修行の方法・人生態度)を自身に教えています。内容は、内的な心の部分が全てで、外的な環境は何も改善しません。また、そんな空しい無を悟る世界観ですから、諸行無常で無我というなら生きていても仕方ない、いっそ悟りを極めて死んでやると飲食も止めて座禅しながらミイラになる人までいます。もう、この世のことには目をつぶって、知らぬがほとけという世界観でしょうか。

また、イエスの真意を見出せないキリスト教徒も、マリヤ像から涙が出たと聞いたら、行って拝み、ルルドの泉の水を飲むと病が治り、足萎えが歩き出すと聞けば、毎年多くの巡礼者が訪れます。

イスラム教徒は、偶像を禁忌します。そのために仏像や寺院を破壊し、絵を描くことすら嫌悪します。しかし、自分たちの偶像のあるカーバ神殿(隕石を祀ってある)を巡礼します。また、シーア派スンニ派の宗派対立は、戦争や殺し合いの様相です。

どの宗教も大きな勘違いをしています。それは、おおよそ全ての宗教の根本にあることですが、「自分」のご利益、「自分」の健康、「自分」の幸福、「自分」の心の満足、「自分」の魂の救い、「自分」の悟り、「自分」の、「自分」の、がその判断の根本になっているということです。

そのために、日蓮宗のように少しの教義の違いで犬猿の仲になって、お互い兄弟ゲンカを繰り返し、イスラムやオームのように人殺しまで肯定する宗教がたくさんあるのです。

教祖や指導者自らが人殺しを平気でしていたのですから、呆れたものです。「諸宗教自体が同じ真理を目指しており、理解し合える」などと世迷言を言う者もいますが、もともと教義が違えば、相容れません。彼らの宗教は、「自分」の教義、「自分」の作法、「自分」の指導者が一番だからです。自ら十字架に架かる者などいない、この世の宗教だからです。

多くの日本人が葬式の時だけお世話になる仏教でも、無我と言いながら、自分の生命のために水を飲み、自分のために飯を食い、自分のために睡眠し、自分の悟りのためにお経を連呼しています。

はっきり言いましょう。解脱だとか心の安心は、まだ第一段階です。自分の悟りや解脱を得ようともがいているこれらの宗教では、煩悩を消し、平安を得て、人生の意味を悟り、自分の魂に空いた穴を埋めることは、できません。心や考えだけの世界では、慰め程度にはなるかもしれませんが、根本的な解決にはなりません。この世には、苦悩がつきまとうから、自分の置かれた環境に満足して、あきらめろ〜では、根本的な解決にはなりません。

外的環境を変えるデュナミスの力が無いなら、この世は闇のまま変えられないのです。実践的な力の伴わない瞑想や座禅だけの宗教なら、さっさとあの世に行ったらいい。ましてやそんな現世を変革できないSFの世界の教えでは、自分の魂を救うこともできないでしょう。

そんな方たちのために、イエスはこう言うのです。

マタイ伝16:25

自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、わたしのために自分の魂の命を失う者はそれを見いだす。(回復訳)

この聖言がわかるとき、やっとこの世の価値観を超えた神の国の高いルール(基準)を理解し始めるのです。

イエス・キリストの不思議な教え】

確かにイエス・キリストは、祈りの人でした。しかし、修行していたエッセネ派のクムラン近くの荒野で祈りと瞑想だけをしていたわけではありません。

マタイ伝4:23

イエスガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、❶御国の❷福音を宣べ伝え、また、民衆の❸ありとあらゆる病気や患いをいやされた。(新共同訳)

‭‭マルコ伝1:15‬ ‭

「時は満ち、❶神の国は近づいた。悔い改めて❷福音を信じなさい」と言われた。(新共同訳‬‬)

マタイ伝‭11:4-6‬ ‭
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。❸ 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」(新共同訳‬‬)

イエスの教えは、❶神の国がこの世界に来た❷福音(驚くべきグッドニュース=恵福)を広めることでした。具体的には、❸ 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病(籟病)を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされる現実の力ある❷福音、驚くべきグッドニュース=恵福だったのです!当時、特筆すべき大奇跡を引っ提げて、ガリラヤ近郊からエルサレムまで、3年に亘り活動をしたイエス。四人が伝記である福音書を書き、キリスト教徒ではない1世紀の歴史家フラビウス・ヨセフスは、『ユダヤ古代誌』に以下のように記しています。

「さてこのころイエスという賢人が現れた。また、喜んで真理を受け入れる人たちの教師でもあった。そして、多くのユダヤ人を帰依させた。ピラトは彼が我々の指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは彼を見捨てようとはしなかった。なお彼の名にちなんでクリスティアノイと呼ばれる族は、その後現在にいたるまで連綿として残っている」。これは歴史家ヨセフスの「キリスト証言」と呼ばれるもので、イエスの実在を十分に示しています。この他、この本にはイエスの時代のユダヤ社会を牛耳っていた二大派閥ファリサイ人とサドカイ人の説明だけでなく、ヘロデ王、洗礼者ヨハネ、大司祭カヤファ、総督ピラトなど福音書でおなじみの人物も登場し、福音書が歴史的な書物であることを裏付けています。

 

キリストの教えは、瞑想して心の持ちようを変えて、、、そんな意見をコメントする人がいましたが、、キリストの福音をそんな与太話で終わらせてたまるものですか!

❸ 盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。(JA1955‬)

「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。」マタイ‭11:4‬ ‭(JA1955‬‬)
と言い放つ力ある事実が伴う福音。言葉の教えなんかに収まっていない、現実世界を変革する力ある❷福音だったのです。

もしイエスが、十字架で死んだあと、肉体の復活がなければ、その後のキリスト教は存在しなかったでしょう。イエスの復活の事実やその後復活のイエスが500人に現れたこと、弟子たちの大奇跡力の伴う福音が使徒行伝時代に展開し、キリストの教えをローマの国教にまで押し上げ、認めさせたのです。今では、信者数は、22億人を超え、世界でもっとも多くの人がイエス・キリストを信仰しているのです。

1:『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。2:『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。

つまり、

1:ひとつの目で、天の御座の主イエスを見つめ、聖なる御父と麗しい主イエスを愛する。2:隣人を愛し、隣人のために癒し、施し、労を惜しまないことが、大切な特徴です。

イエス・キリストの福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、すべて信じる者を救いに至らせる神の力です。(ローマ1:16)
しかし、この2つの愛がイエス・キリストの語った実践すべき教えの特徴であり、柱と梁なのです。

 

この世の宗教では、「自分」だけ悟ればよい、「自分」だけ救われたならそれで良い、「自分」の宗教は一番だと他を押し退ける。そんな魂は救われません。

イエスの福音は、心に愛があふれ、内面だけに留まらず、愛の力で外側の現実世界を変革する。人々に神の国の福音を広げていく。キリストの教えは、苦しみ困窮する人々を救う、言葉でなく力にある愛の❷福音なのです。


Ⅰ‭‭コリント4:20‬ ‭

神の国は言葉ではなく、力である。」(‭JA1955‬‬)

主は言い給うた、「汝ら我に居り、わがささやく言葉が汝らの中に聞こゆるならば、望むがままに求めよ。さらば汝らに実現する」(ヨハネ伝15章7~8節)と。私たちは豊かに実を結び、主の弟子となり、父なる神の栄光を現わさねばならぬ。カリスマ的な能力と特性と賜物が、今ぞ私に発芽しつつあり。これを尊んで、カリスマ的大人格の完成を目指さねばならぬ。

            〜手島郁郎師『霊修の五段階』より

栄化のためにカリスマ的な能力と特性と賜物が、聖霊により開花することを望みます。

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2019.4.29撮影

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2016/04/02/232955

キリストの幕屋(原始福音)が、イコール統一教会であると言うデマがありますが、実際に集会へ行って調べて言っているのでしょうかね?全く無関係なのに、よく調べもせずネットに流す愚か者が日本人に居るのが残念です。

 

中国の危険なデータ収集 〜獣の支配構築

2016年のはじめから、新疆の警察はスマートフォンに侵入し、保存されている全ての情報を分析することが可能な携帯型またはデスクトップのスキャン端末の利用を始めた。現在、これらの監視技術は静かに中国全土に広まっている。ロイター(Reuters)によると、この技術はすでに上海や北京等の都市に展開されているようだ。記事出典:https://jp.bitterwinter.org/

 

北京での国際警察装備品展示会において、スマートフォンに侵入してデータを読み取る中国製の「スキャナー」が展示、中国治安当局が、いかにテクノロジーを駆使して共産党支配に反抗的な行動を監視し、取り締まっているかをこの展示会は物語っている。北京を拠点とする海鑫科金は、同社が開発したデスクトップ型と携帯用の電話スキャナーによって、フェイスブックツイッターを含めた90以上のスマホのアプリから、消去済みデータさえも回収できるとしている。

一般にiPhoneは最も安全と言われ、イスラエルと米国の数社しか侵入できないと報じられているが、北京の展示会では複数の会社が、iOS 6からiOS 8.1まで、4ケタのパスワードを破ることができると主張していた。

記事出典:

https://search.yahoo.co.jp/amp/s/jp.mobile.reuters.com/article/amp/idJPKCN1J00JS%3Fusqp%3Dmq331AQQCAEoAZgBuaP0_NK8k-T0AQ%253D%253D

 

上記の記事から、中国大陸のネットワークにアクセスする際に、我々のスマートフォンの中味が収集されている可能性が考えられます。あなたの端末の情報から、中国の兄弟姉妹が逮捕される可能性も考えなければなりません。

 

❤️栄化への実践4 〜十字架の愛は喜びだ

栄化への実践で、2つの大切な戒めを具体的に実践することを示してきました。

栄化へ向けて、1:天の御座の主イエスを見つめ続けるひとつの目を開くことで、聖なる御父と麗しい主イエスを愛することができます。また、2:隣人のために肉体を十字架につける(隣人のために肉体を酷使する)ことは、隣人への愛を増します。実際これが、最高の喜びなんです。この2つの愛のクロスで、神様が顕現することについてお話ししました。

御神の栄光を反映する生活は、実に楽しい喜びに満ちたものです。ヨハネ伝で主イエスは、そのことを語っておられます。

ヨハネ伝15:7-11

7あなたがたがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたがたの中に住んでいるなら、何でも望むものを求めなさい.そうすれば、それはあなたがたにかなえられる。
8あなたがたが多くの実を結ぶことで、わたしの父は栄光を受けられ、こうしてあなたがたはわたしの弟子となる。
9❶父がわたしを愛されたように、❷わたしもあなたがたを愛した.❸わたしの愛の中に住んでいなさい。
10あなたがたが❹わたしの戒めを守るなら、わたしの愛の中に住むであろう.それは、わたしが❺父の命令を守って、彼の愛の中に住んでいるのと同じである。
11これらの事をあなたがたに語ったのは、❻わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。(回復訳)

 

9節では、「❶父がわたしを愛されたように(=父から子への縦の愛)❷わたしもあなたがたを愛した(=イエスが隣人を愛する横の愛).❸わたしの愛の中に住んでいなさい」と2つの愛を語っておられます。
また、10節では、「あなたがたが❹わたしの戒めἐντολὰς(複数)を守るなら、わたしの愛の中に住むであろう」と、複数形で戒めを語っています。もう、何の戒めかわかりますよね。

律法と預言者がかかっている大切な戒めです。❹わたしの戒めとは、=『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二はこれである、『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。これらよりも大いなる戒めはない」。マルコ12:30.31

 

10節の「それは、わたしが❺父の命令(戒め)ἐντολὰςを守って、彼の愛の中に住んでいるのと同じである」❺は❹と同じἐντολὰς戒めの複数形であり、神への愛と隣人への愛を指します。

ここからが大切です。
11節、「これらの事をあなたがたに語ったのは、❻わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」と言っています。

律法と預言者がかかっている大切な戒めとされる1『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。2『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。この2つの戒めは、重く辛い陰鬱な石の戒めではありません。❻わたし(イエス)の喜びがわたしたちの中にあり、わたしたちの喜びが満ちあふれるためのものなのです。これは、世人にはわからない天国の喜びです。

十字架上で主イエスが示した愛。その愛と合一する実践は、無上の喜びを頂くことなのです。十字架を負うとは、重く辛い陰鬱なことではなく、心に無上の喜びを頂くことなのです。

勘違いしている世人が多いのです。自分の十字架を負うとは、キリストとともに天国の栄光と喜びが満ち溢れる体験です!

もう、この世の価値観とは違うんですよ!

世人は単一の目が開かれないから、これがわからない。「あなたの目が悪ければ、あなたの全身は暗い。もし、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう!」マタイ6:23。「だから、あなたの内にある光が、暗やみにならないように用心しなさい。」ルカ11:35とキリストは警告したもうのです!

 

実際にもっとわかりやすい証詞を紹介します。愛の実践の喜びについて、熊本へ無償の癒し旅をした際の横塚修身先生の言葉を再度シェアさせてください。

「私たちは、私たち自身が喜びを頂けるから熊本へ行くのです。
少なくとも私はそうですが、他のスタッフの皆さんも思いは同じだと思います。

何日も仕事を休んで自分のことを後回しにして、しかも自費です。

この世的に見ると一見ばかげたことに見えるかも知れません。
一見、損することばかりしているかの様です。

でもね、そうじゃないの。
とてつもない喜びを頂けるのです。

これは理屈では分からない。
実際にやってみないと分からない。

その喜びがどんなものかは・・・・。

この世的には、

お金がたんまりとあると嬉しい。
好きな人と一緒にいると楽しい。
家庭が円満だと幸せ。
美味しいものを沢山頂けると嬉しい。
趣味も楽しい。

この世的には数え上げるときりがない程、楽しい嬉しい喜ばしいことはあるものです。

でもね、この喜びはすべて「この世的なもの」なんです。

「あの世的」なものではないのですね。

あの世とは天上界、天国のこと。

天国に住む天使たちの喜びは、常に人々の幸せだけを願って日々活動しておられるそうです。

「無償の愛の実践」をしてくれる人を探しておられるそうです

無償の愛の実践をされている方を見つけ出すと、天使たちは共に活動する事を歓喜するそうです。

それと同時に惜しみない応援をして下さるそうです。
私たちが密かに望んでいるものはすべて与えて下さるそうです。

半面、この世的なことに奮闘努力して、努力して努力して得難いものを得ようとするのはそれはそれでいいのですが、一度それを後回しにして愛の実践をしてごらん。
望むすべてのものが労せずして与えられる
から・・・・・。

これホントの話です。

でもね、本当はこのことを言ってはならないのです。
言うと、ご褒美を目的にする人が居かねないからです。
これは本末顛倒ですね。

しかし、仮に本末顛倒でもいいのです。
ご褒美を目的にしたって与えられますのでご懸念なく・・・・・。

私の場合は理屈ではなく、与えられるからでも自分の心が喜びを頂けるからでもなく、ただ「それをしたいからやっている」だけなんです。

その結果、すべてのものが与えられているのです。
知らず知らずの内に引き寄せているのです。

この無償の愛の実践を命がけでされたのが長尾弘先生です。
先生はこう言われました。

愛の実践をすることで肉体を酷使すると、心に無上の喜びを頂けます。心が喜んでくれるのです」と・・・・。

「極限まで肉体を酷使して愛の実践をすると、心の奥底から神がお出ましになられる」とも言われました。

「無償の愛の実践をすると、心のフィルターにたまっているゴミやスモッグが自然に払われてクリーンになり、本当の神さまがお出ましになるのです」とのことです。

求めても得れないものが、愛の実践をすることで得られるとすると、神社仏閣に行って神頼み仏頼みをする必要はないし、ましてやパワースポットに行く必要などさらさらにないですね。

神は私たちの心の奥底に鎮座ましましているそうです
パワースポットは私たちの心の中にあるのです。

神さまが出てこられるのならどんなことでも瞬時に叶う訳ですね。

だから行こう、熊本へ、って訳ではないですよ。

繰り返し言いますが、心が喜ぶのです。
天上界の仲間たちと心を共有して一つになれるのです。

長尾先生は言われました。
「愛の実践をすればする程、天国の蔵に宝を蓄えられます」

愛の実践は心の泉に愛を満々と蓄えます。その愛こそが優しさです。心の泉に愛が蓄えられたら、それを汲みだして他の方に差し出すのです。
蓄えられたら汲みだす、又与えられたら汲みだすという循環の中に生きると無上の幸せが得られることでしょう。

「この地上界にいる人のすべての方に幸せになって頂きたい、健康であって頂きたい」

それが長尾先生の願いであったし、師を慕う私の目標でもあります。

その目標を達成する為の小さな歩みが熊本なんです。

熊本での活動を耳にされた方からよく言われます「素晴らしい活動ですね」とか「偉いですね」とか・・・・・。

そうじゃないんです。
だってねボランティアではなく、私たち自身が喜びを頂けるからで自分の為なんです。だから偉くもなんともない。

最後にまた長尾先生のお言葉を引用します。

「人様に喜んで頂くことをすると、相手の方の心は喜びに満たされます。この喜びはそのまま私の喜びとなるのです。

人の喜びを我が心の喜びとする。
座右の銘です。」~以上 横塚先生。

    この方たちは、宗教とは関係のない立場で、種々の宗教は尊崇しています。その個人的教義や信仰はどうあれ、実際に、神の戒めを潔く実行しているため、聖書の奇跡がついてくるのです。よく理解できるので、再掲させて頂きました。ありがとうございます。

ヨハネ伝15:7-11は、とても大切な聖句だとわかります。この聖句を体現できるような実践を日々行うことで、❻主イエスの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるのです。主イエスの言葉は、体験すべき現実です。実体験、実践の中で体験するものだと思います。

これは、まだ栄化への基本的な段階かもしれません。まだ、やっと自分の十字架を負ったところですから。しかし、この十字架(くびき)は軽く、キリストと並んでくびきを負うという絶大な喜びが伴うものだと感じます。マタイ11:29-30

あー主さま、あなたは真実です!あなたの愛の中で生きるとは、なんと幸いなことでしょう!ハレルヤ!

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2019/04/19/002806

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2019.4.28撮影

 

 

❤️栄化への実践3 〜十字架は愛のクロスだ

栄化への実践1と2では、1:天の御座の主イエスを見つめ続けるひとつの目。2:人々のために肉体を十字架につける(自分でなく隣人のために肉体を酷使する)ことで、神様が顕現する癒し隊のことをお伝えしました。

この2つを実践すれば、あなたの周囲や心に不思議な祝福と奇跡が起こり続けることがわかるはずです。これは、神様の栄光を反映し始めた証拠です。まず、あなたの周囲の人たちに影響が現れますし、不思議な祝福や奇跡が現れ続けるのです。それは、あなたの力ではなく、神様が現れたことによる神様の御業の現れです。

しかし、長尾先生のように無償で癒しをしながら旅をするなんて....という方もいると思います。大丈夫です。癒しの旅ができなくても、日常生活の中で実践はできます。その秘訣をお話しします。

旧約の時代では、旧約聖書にある数々の律法や戒めが示され、石に書かれた文字にイスラエルの民は従うことを求められました。実際、現代でもイスラエルの人口の10%以上を占めるユダヤ教のハレーディー(超正統派)は、今でも事細かに律法を守っています。

しかし、2000年前に、主イエスは、厳格に律法を守るユダヤ教オーソドックスの律法学者やファリサイ派の人々を「マムシの子」呼ばわりする場面がありました。

マタイ伝23:27-33

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。 蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」(新共同訳‬‬)

なぜ、ユダヤ教の律法学者たちを白く塗った墓、預言者を殺した者たちの子孫、蝮の子とまで言っているのでしょうか。

心を見られる主は、細かな律法を守っていても、彼らの内側は偽善と不法で満ちているのを見抜いていたのでしょう。

マルコ伝では、主イエスは一人の律法学者の質問に、律法の真髄について答えています。

マルコ伝‭12:28-34‬ ‭
「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」(新共同訳‬‬)
ここでは、この律法学者をマムシの子とはよばず、「あなたは、神の国から遠くない」と話しています。それは、この人が二つの戒めの大切さを実感していたからでしょう。

金持ちの青年の話

マタイ伝19章では、金持ちの青年の話があります。

マタイ伝‭19:18-24‬

「男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」」(新共同訳‬‬)

金持ちの青年は、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」はみな守っていると言っていました。しかし、青年の心を見られてイエスは「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と続けるのでした。

イエスは、「完全になりたいなら、❶持ち物を売り払い、❷貧しい人々に施し、❸天に富を積み、それから、❹わたしに従いなさい。」と4つの課題を青年に示しました。しかし、たくさんの財産を持っていた青年は、悲しみながら立ち去ったのです。青年が、「隣人を自分のように愛している」なら、この言葉を実践できたことでしょう。

「隣人を自分のように愛する」とは、本当に難しいことです。3つ目の栄化への実践として、❶〜❹を行うのは、完全になるための近道でしょう。

では、私の隣人とは誰なのでしょうか?

ルカ伝10章でひとりの律法学者が、この質問をしています。

ルカ伝10:25-37

「すると見よ、ある律法学者が立ち上がり、イエスを試みて言った、「先生、永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいでしょうか?」
イエスは彼に言われた、「律法に何と書いてあるか? あなたはそれをどう読むか?」
彼は答えて言った、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛し、自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい」。
イエスは彼に言われた、「あなたは正しく答えた.それを行ないなさい.そうすれば命を得る」。
しかし彼は、自分の義を立てたくて、イエスに言った、「それでは、わたしの隣人とはだれでしょう?」
イエスはこの質問を取り上げて言われた、「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行った.すると、彼は強盗どもの手に陥った.彼らは彼の衣服をはぎ取り、彼を打ちたたいて、半殺しにしたまま立ち去った。
たまたま、ある祭司がその道を下って来たが、彼を見ると向こう側を通って行った。
同じようにあるレビ人も、その場所に来たが、彼を見ると向こう側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリヤ人が、彼の所に来た.そして彼を見ると、❺深くあわれみ、❻近づいて来て、その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をした。そして自分の家畜に乗せて、宿屋に運び、彼の❼世話をした。
翌日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った、『彼の世話をしてください.どんなに余計にかかっても、わたしが戻った時に払います』。
これら三人のうち、だれが強盗の手に陥った者の隣人になったと思うか?
彼は言った、「彼に❺あわれみを示した者です」。イエスは彼に言われた、「行って、あなたも同じようにしなさい」。(回復訳)

隣人(πλησίον)の語義は、near, neighboringです。文字通り、あなたの隣人とは、遠く接点のない人ではなく、あなたの近くで接する人です。あなたが旅先や職場や学校生活の中で接する人は、みな隣人です。それも、裸で傷つき倒れている人=困っている人を❺深くあわれみ助けてやれと言われたのです。

傷だらけで半殺しにされた裸の人を見て、祭司もレビ人も道の反対側を通って行きました。彼らは、隣人になることもなく、介抱することもなく、まるで人間ではないラクダのように、横目で見ながら無言で通りすぎたのです。

強盗に半殺しにされた人の隣人となり、❺あわれみを示した者は、ユダヤ人に嫌われていたひとりの※サマリヤ人でした。彼は、❺深くあわれみ、❻近づいて介抱し、宿まで手配し助けてやりました。

イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。

また、この箇所で大切なのは、律法学者が聞いた「先生、永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいでしょうか?」の答えとして、良きサマリヤ人について話したということです。

このサマリヤ人のように、裸で傷つき倒れている人=困っている人を❺深くあわれみ、❻近づいて介抱し、❼世話をせよ、助けてやれ、行って、あなたも同じようにしなさいと言われたのです。この実践は、永遠の命を受け継ぐために大切な行為なのです。

長尾先生のように無償の癒し旅ができなくても、困っているあなたの隣人の❻近くで❺あわれみや援助を惜しまない生き方を毎日続けることで、永遠の命に近づいていけます。隣人のために肉体を十字架につける(自分でなく隣人のために生きる)ことで、神様が顕現するのです。

また、「完全になりたいなら、❶持ち物を売り払い、❷貧しい人々に施し、❸天に富を積み、それから、❹わたし(イエス)に従いなさい」と青年に示した言葉を実践するのも、栄化(完全)に近づく大切なことなのでしょう。こう話しながら、私自身も、心で決意はついていますが、まだ実践に移せていない部分があります。

それでも、心を見られる主は、わかってらっしゃることでしょう。

ここでマタイ伝から、大切な聖句を読みましょう。

マタイ伝22章36-40

36「先生、律法の中でどれが大切な戒めですか?」
37イエスは彼に言われた、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。

38これが大切な第一の戒めである。
39第二もそれと同じである.『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。
40これら二つの戒めに、すべての律法と預言者がかかっている」。(回復訳)

 

栄化へ向けて、1:天の御座の主イエスを見つめ続けるひとつの目を開くことで、聖なる御父と麗しい主イエスを愛することができます。また、2:隣人のために肉体を十字架につける(隣人のために生きる)ことは、隣人への愛を増します。実際これが、最高の喜びなんですよ。この2つの愛のクロスで、神様が顕現します。

御神の栄光を反映する生活を継続していきたいと切に願います。

 

※サマリヤ人は、イスラエル人とアッシリアからサマリアに来た移民との間に生まれた人々やその子孫、また、サマリア教徒のことをいいます。ユダヤ教との相違点として聖地はエルサレムではなくゲリジム山であったことと、モーセ五書(トーラー)は聖典であったが他の書(ユダ王国起源のものなど)は聖典に加えなかったなどがあり、特にユダヤ教ファリサイ派とはトーラーにない宗教的規定を守るかどうかで異なっていました。

現在、ユダヤ人たちとは和睦が成立し、ユダヤ教徒の一派として認められています。

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2019.4.27撮影 天の視線

https://youtu.be/TddLq4gdNDw