神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

♡レーマを読み解く7  ~信仰とは、無畏心 ウェスレーに学ぶ

 

「すると、❶激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。ところがイエス自身は、舳の方でまくらをして、❷眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、『先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか』と言った。

エスは起きあがって風をしかり、海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。

エスは彼らに言われた、『なぜ、そんなに❸こわがるのか。どうして❹信仰がないのか』。」(マルコ4:37-41)

 1735年ジョン・ウェスレーは英国から米国ジョージアへ向かう途中、大西洋で大きな嵐に遭遇しました。ちっぽけな船が沈むおそれは、誰の眼にも明らかでした。しかし、この船に、モラヴィア兄弟団のグループが同船していました。ウェスレーは、この一団の人々が集い、祈り、賛美し、聖霊による喜びにあふれている様子をずっと観察していました。
 嵐はいよいよ恐ろしいほどの勢いで襲ってきたのです。ウェスレーは自分には死の用意ができていないことに気づき、彼は恐れ、何をすべきかわからない状態でした。そこでモラヴィア兄弟団の人々を見にいこうと考えました。彼にとって全く驚きだったのは、この人々は、なおも喜びに満たされ賛美していたのでした。嵐は彼らを畏れさせることはなかったのです。  
 ジョン・ウェスレーは、航海中の嵐の中で不思議と平安のうちに神を賛美するモラヴィア兄弟団に、自分にはないものを感じました。彼は奇跡的に港に着いて兄弟団の指導者シュパンゲンベルクから「あなたはイエス・キリストを知っておられますか。」と尋ねられました。その後ウェスレーは、1738年アルダスゲイトにてモラヴィア兄弟団の宣教師ペーター・ベーラーの信仰義認の説教を聞いて、信仰の確信を得、第二の回心ともいうべき体験をし、後のメソジスト運動に至るのです。
 敬愛する師は、信仰とは無畏心(全くおそれのない心)であると言っています。聖霊を受けたモラヴィア兄弟団の人たちは、嵐の中でも酒に酔うように聖霊に酔っていたことがわかります。大嵐の海で、賛美しながら喜んでいる姿は、❶嵐の中の小舟で主イエスが❷居眠りをしていた姿に似ています。❸恐れ惑う弟子とは対照的に、そこには神への全き❹信仰による恐れなき心、無畏心があります。
 われわれが聖霊に満たされるとき、接する者たちに不思議な神の力を見せるものです。御霊の満たしと歓喜を持ってこの人生を歩めば、キリスト自らがわれわれを通して体現します。回心後ウェスレーが始めたメソジストは、聖書の信仰覚醒運動でした。モラヴィア兄弟団の聖霊の働きは、まさにこの地上人に天国を垣間見させ、世人を不思議に回心させる奇跡力でした。彼らの影響で、大嵐の船中で震えていたウェスレーは、火のように大胆に語る説教者に変えられました。

 たとえ、われわれの周りが暴風雨でも、大敵に囲まれていても、乏しく寄る辺がなくても、この世的に死にかけていても、ヨブのようにすべてを失っていても、御霊の満たしと歓喜を奪うものはないのです。キリストにあって、「この世は私に対して十字架につけられ、 私もこの世に対して十字架につけられたのです。」 (ガラテヤ6:14)

 すでにこの世は十字架にかかっています。われわれの国籍は天なのです。すでに天に生きる者は、全能の主なるYHWHをかしこみ畏れますが、主のほかには恐れるものはないのです。全能の主に仕えているのですから。世人にはそれが不思議に見えるはずです。  

 無畏心とは、父なる神の御手を信じて、割れた大海の間を進むイスラエルの心であり、裸でゴリアテに向かうダビデの心であり、進んで十字架を負う主イエスの心であります。

    今週、新聞に載るような三つの大きな案件があり、祈りの中で主の御心を求めました。一つ目は、昨年来のもので、世の常識とは違う配慮に満ちた裁定がでました。ハレルヤ!二つ目は、強硬な要求に対し、不思議に退けることができました。ハレルヤ!三つ目も、御心を求めていきます。感謝です。

     主の御手があるので、無畏心により歩めるのであります。信仰とは無畏心なのです。御名を心より賛美いたします!

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